手のひらの話

物語のような、呟きのような…

謎解きの鍵

「迷信は信じないが伝説は信じる」

子供の頃に読んだ「ぽっぺん先生と笑うカモメ号」の中でのカモメの言葉。

不思議とよく憶えている。古代が好きなので歴史の謎解きをするが、行き詰まったら伝説を頼る。

分量も少なく、整理された古代の文献をいくら読んでも解けない謎が、中世以降の怪しげな文献の言葉で、ふわっと解ける時がある。

正当な歴史からもれた、隠された、忘れられた言葉が伝説の中に甦る。

ぞくぞくとする瞬間である。

大ガラスへのオマージュ

2004年、大阪市内で開催されたマルセル・デュシャンの展覧会に行った。

デュシャンの作品だけではなく国内外のアーティストによるオマージュ作品が数多く展示され興味深かった。

入口に巨大なカラスのオブジェ。吉村益信氏の「大ガラス」。デュシャンの代表作「彼女の独身者達によって裸にされた花嫁、さえも」へのオマージュ。2.7m×1.7mのガラス板に表現されているので通称「大ガラス」。

このオマージュは日本語を知らなければ理解出来ない。さらにエドガー・アラン・ポーの『大鴉』を想起させる。

「私」のもとに舞い込んだ大鴉は「私」の質問に、繰り返し"nevermore"「またとなけめ(日夏耿之介訳)」とだけ答える。

デュシャンの大ガラスは饒舌だ。しかしその言葉は理解出来ない。

埴谷雄高『死霊』では、嬰児は「だあだあ」と発する。これはダダイズムへのオマージュと解されている。「存在の原動力を止めてはならない」主人公三輪与志は嬰児に触れながら言う。その意は「nevermore≒いま、ここ」だからだ。

フランス国立近代美術館「ポンピドゥセンター」ではデュシャンのレディーメイド作品を動かしながら展示している。ダダの動きは止まらない。

喜界島の味

喜界島出身の方と知り合ったので、焼酎「喜界島」を飲んだ。30年余り前の記憶がよみがえった。

二十歳の時、沖縄旅行を企てた。大阪南港から奄美経由のフェリーに乗った。2等船室で乗り合わせた人たちに名瀬で下船する年配の一団があった。一人の男性が気さくに声をかけてくれ、奄美までの航路の友としてくれた。

この人に奄美の焼酎を飲ませていただいた。

「辛いでしょう」

当時の私には酒の味がわからず、曖昧にうなづいた。飲めなくはなかった。

その後、いろいろの酒を飲み、焼酎の味もそれなりにわかるようになった。奄美黒糖焼酎も気に入り、たまに飲んでいた。

ところが「喜界島」をのむまで30年前の2等船室での味を思い出すことはなかった。つまり思い出したのだ。あのフェリーの中でいただいた焼酎は喜界島の酒だったのだ。彼らはおおまかに奄美と言っただけで、実は喜界島に帰る人たちだったのだろう。酒の味が思い出させた。

柿本人麻呂

枕詞と言うのは口承文学の名残りではないかと仮定したのですよ。

ところがね、柿本人麻呂の歌では、枕詞は全く違うものに変容しているのです。

古事記採録されている神々の歌にみえる古拙な枕詞ではなく、文学的に昇華しているのです。古い枕詞を独自に解釈して使っていることもある。

人麻呂と同時期の万葉の歌でも、枕詞はあくまでも古来の用い方をしているのです。ところが人麻呂作だけは違う。

古事記の雄略帝の物語の中に神話のヤチホコの神の歌に擬したものがあるのですが、これなど、ひょっとしたら人麻呂の作ではないかと空想します。

はやたま?

高校3年の夏、紀伊半島旅行を計画した。大阪の天王寺南紀の新宮を往復する夜行列車を利用した。かつては寝台車を連結していたので「はやたま」の愛称があった。

私の時には寝台車はなく、従って愛称もついていなかったが鉄ちゃん達は「はやたま」と呼んでいた。寝台には指定席券が必要なので当時はその為に愛称を付けていた。

因みに鉄ちゃんたちで「はやたま」が新宮市内にある神社を由来としていると知る者はいなかった。その当時のことだ。

あれから年月が経ち、神社巡りも珍しくない趣味となったようだ。観光バスで知り合った女性同士が朱印帳を見せ合っている。驚いたものだ。楽しみが多方面に広がって行くのはいいことだ。大袈裟に言うとタブーが減って来ている。

ただし、神社巡りの女性も、歴女なる人たちも、共通しているのは、学問的追求はしないことのようだ。そう言えば私の子供時代にも沖田総司に恋する少女がいたな。写真が残っているのだが見たこともないのだろう。

偽史の世界

10代の頃「古事記以前の書」と言うものにこだわった。「古史古伝」などと呼ぶが、今でも流布しているのだろうか。

と言うのも新聞の広告に「ホツマツタエ」の文字を見たからだ。これなども超古代から伝えられた文献であるかのように喧伝されているが、どう遡っても近代のものだ。

古史古伝のルーツはウエツフミであろうと思われるが、これも江戸時代後期のものだろう。つまり賀茂真淵本居宣長らが国学を大いに進展させた時代に、それに乗じて如何わしい文献がいくつも生産された。

近代では神道系の新宗教に軍部、右翼が関与し、大部な偽書が拡大生産された。

戦後では昭和50年代に津軽の民家から古代の歴史を伝えると言う江戸時代の文献が発見され論争となった。今ではその発見者の創作と結論されているが、この文献生産に柳田民俗学の遠い影があることを大塚英志が論証している。

それにしても「ウガヤ73代」はどこから出て来たのだろうか?