ねのみこもちのフィールドワーク

古代史の現場を歩く。フィールドワークだけではなく、資料館の見学記、講演の記録なども。時々、勝手な妄想で古代史を語る。

2026年10月3日 銅鐸博物館で岡村秀典氏の講演を聞く

この日は滋賀県野洲市の銅鐸博物館で岡村秀典氏が「歴史考古学からみた倭国王帥升と大岩山銅鐸」と題して講演された。タイミングよく銅鐸博物館を再訪したいと思っていたところだ。また最近発掘された中畑・古里遺跡も確認しておきたかった。

始めに断っておくと、岡村氏の講演内容は近年の氏の仮説のままだったので、ここでは詳しくは触れない。私はもうひとつのブログ「銅鐸・鏡・古墳」で岡村説について4回にわたり紹介している。

nekozame.hatenablog.com

岡村説の紹介は3回目までで、4回目では難波洋三氏が出された岡村説への「注文」について検証した。難波氏は岡村説を全否定されているわけではないが、若干の懸念を表明されている。私は岡村説を紹介する中で、自身の見解との相違についても触れている

中畑・古里遺跡付近からみた三上山

写真中央に工事中の建造物が見える。道路の高架のようだ。その手前で大型建物跡と、門柱と思われる柱穴が見つかった。時期は弥生中期の終わりから後期初頭とのことだ。

弥生時代の大型建物は滋賀県では伊勢遺跡に始まるとされていたので、時代が50年ほどさかのぼった。しかも守山市の伊勢遺跡よりも三上山や大岩山に近い位置だ。

紀元前後にあたるこの時代には銅鐸が巨大化し「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へ変化する。東アジア史的には王莽の時代であり、岡村秀典氏が着目する「東夷王」の遣使もこのころだ。

「東夷王」遣使は史実ではない可能性が大きいが、野洲川デルタの勢力を中心として近畿各地の勢力が結集し、北部九州を介さずに中国へ遣使したとも考えられる。

岡村説ではこの時すべての「見る銅鐸」の青銅原料と王莽宮廷鏡が近畿へもたらされたとする。異論はある。「見る銅鐸」の原料は非常に狭い領域に属するもので、ひとつの鉱床に由来すると思われるが、同時に北部九州で巨大化した広形銅矛も同じ原料を用いている。

「東夷王」遣使には北部九州勢力の影響は排除できない。

また、王莽宮廷鏡である方格規矩四神鏡は近畿の前期古墳から出土するが、王莽期に近畿にもたらされたとすると、300年以上の「伝世」を考えなければならない。

とは言え、中畑・古里遺跡の出現で岡村説の魅力が増したことは事実だろう。

今後は私がこの時代に発生したと考える大規模な自然災害との関連が課題となるだろう。

この遺跡については「古代史ハルキー」さんが新しい動画の中で触れている。

youtu.be

ハルキーさんの考察はとても深いので勉強になる。

この動画の補足もアップされているのでそちらも見て頂きたい。

銅鐸祭祀はなぜ終わったのか

ハルキーさんの「銅鐸王国」とは私の言う湖南政権とほぼ重なるようだ。ただしその終焉についてはやや異なる。

「銅鐸王国」はヤマト王権に吸収される際、銅鐸埋納を許されて大岩山に埋めたとのことだが、私はヤマト王権により強制的に埋納させられて湖南政権は消滅したと考えている。それは「倭国乱」の結果だった。

補足の動画では「聞く銅鐸」の時代は「集団祭祀」だったが、「見る銅鐸」時代には「カルト的」な意味合いを持つようになった(動画の表現は違うが)。

私は近畿式・三遠式銅鐸は「神像」だったと見ている。弥生後期に銅鐸祭祀を捨てた地域では墳墓が大型化して王権の芽生えが見られるが、銅鐸分布圏では墳墓の大型化は見られない。しかし、それに代わるものが巨大化した銅鐸ではなかったか。

近畿式・三遠式銅鐸は王権のシンボルと見て良いと思う。ハルキーさんの見解にも近いと考える。

銅鐸博物館

野洲市歴史民俗資料館「銅鐸博物館」は大岩山銅鐸出土地に近い。大岩山では1881年に子供達が偶然に銅鐸を発見し、最大の近畿式銅鐸を含む14個が出土した。その後、散逸し、現在12個の所在が確認されている。

次いで1962年、新幹線の工事に伴い、10個の銅鐸が見つかった。これらは散逸を危惧して滋賀県が保管することとなった。この時の経緯は銅鐸博物館編『銅鐸と邪馬台国』サンライズ出版1999に収録されている水野正好(1934〜2015)の講演に詳しい。

銅鐸のルーツ・青銅原料・銅鐸鋳型の展示

 

常設展示室1では銅鐸の出現から製造方までがコンパクトに展示されている。銅鐸のルーツになったと思われるのは左写真の左にある馬鈴、また朝鮮半島で製作された小銅鐸(中央)だ。右の小銅鐸は北部九州で製作されたもので、銅鐸の影響を受けて作られたと考えられている。

青銅の原料は銅が最も多く70%前後、錫が数%から20%以上と開きがある。鉛は2%以下から10%を超えるものがある。この他に1%未満の微量な物質が20種以上測定される。中央の写真の展示では銅と錫の配合による色調の変化がわかる。

銅鐸鋳型は石製段階のものは見つかるが、土製になると発見されていないようだ。土製鋳型は大型化が可能だがもろいので再利用ができない。したがって同笵銅鐸も少ない。

ここでは銅鐸復元の際の映像とともに銅鐸と鋳型の関係が良くわかる模型が展示されている。以下の動画はそれを編集したものだ。

youtu.be

常設展示室2には大岩山銅鐸が展示されている。

大岩山銅鐸 左:1881年出土 右:1962年出土

左写真の左奥に見える大きな銅鐸が最大の近畿式銅鐸で実物は東京国立博物館にある。右手前のものもレプリカだが奈良県の天理参考館で見ることができる。

いくつかは撮影禁止になっていた。海外の博物館に所蔵されているものや個人蔵のレプリカだ。

右の1962年出土銅鐸のうち数点は実物が展示されている。

銅鐸を見に行くと言ってもその多くはレプリカだ。私はそれで良いと思っている。専門の研究者ならともかく、一般の私たちでは本物かどうか見分けはつかない。私たちが観察するのはレプリカで問題はない。

左:神庭荒神谷遺跡出土銅鐸 右:桜ヶ丘銅鐸など

展示室奥の壁面には各地の銅鐸が展示され、銅鐸の変遷を見ることができる。続いて滋賀県出土の銅鐸が展示されている。

 

左から伝滋賀県出土辰馬407号銅鐸 草津市で出土した最少の銅鐸 
竜王町山面(やまづら)銅鐸 大津市石山寺辺町出土の銅鐸

大岩山では24個の銅鐸が出土しているが、それ以外の滋賀県内からの銅鐸は決して多いとは言えない。この現象にも意味があると思われる。例えば、地域の勢力が大岩山に銅鐸を持ち寄ったとの考えだ。

私もこのような見方に近いが、王権との関わりの中でどのように位置づけるべきか答えは見えてこない。他地域の例から、埋納状況や集落遺跡との関係からドラマが見えてくるとは思うのだが。

船形埴輪 栗東市新開4号墳出土

2階の企画展示室ではこの日から秋季企画展「湖・川が育む水との暮らし」が始まっていた。古代から現代に至る、琵琶湖水運、漁業、農業についての展示だ。

特に興味をひいたのは祭祀に関する展示だった。古墳時代につながる導水施設の遺構は守山市の服部遺跡に始まるとも言われている。ほぼ同じ時期に纏向遺跡でも同様の祭祀が行われていた。これについては改めて考えて行きたい。

午後からの講演を前に一旦館外へ出た。

大岩山銅鐸出土地の碑 実際に出土したのは右の道路を登った先のようだ

昨年、大岩山銅鐸の出土地を探った。結局どこかわからなかった。後で調べると、長年の土取りでかつての山容はほぼ失われたとのことだった。その日、私は右の道を下ってこの碑を見た。

2025年9月16日 湖南の弥生時代を歩く - ねのみこもちのフィールドワーク

その後も気になっている。大岩山銅鐸の埋納地からは三上山が見えない。三上山に連なる尾根の先ではあるが、なぜここにと思う。

私は始めに大岩山銅鐸はヤマト王権によって強制的に埋納させられたと言った。しかし今、少し考えが変わった。埋納は「させられた」のではなく、意図的に「隠匿」のために行われたのではないか、と言うものだ。

今はおぼろげに思い始めただけだが。

冒頭に記したようにこの日の講演はこれまで読んできた岡村秀典氏の論文の内容を大きく出るものではなかった。特に難波洋三氏の呈した疑問への答えもなかった。なかったのではなく、主張を変えられることはなかった。

論文を読む4 岡村説への難波洋三氏の疑問 - 銅鐸・鏡・古墳

岡村説と私の見方の違いは大岩山銅鐸埋納に王権の交代を見るか、見ないかだ。岡村説では「東夷王」の時代から卑弥呼まで、一貫してヤマトに王権があり、卑弥呼以前を「原倭国」と呼ぶ。

私は最大の近畿式銅鐸を作った勢力を湖南政権と呼ぶ。この政権は後のヤマト王権との確執により消滅した。それが「倭国乱」である。

岡村説では最大の銅鐸を作った王権がそれまでの銅鐸を一括して埋納し、銅鐸の祭祀を終えたとする。政権を失った湖南勢力がヤマト王権の命令により銅鐸を埋納したとする私の考えとはそこが異なっている。

また自らが王権に加わることで銅鐸埋納を許されたとするハルキーさんの説もある。

銅鐸には直接触れないが森岡秀人氏は伊勢遺跡で卑弥呼が共立されたとする。森岡氏は近畿北部勢力を重視している。

講演会は盛況だった。満席になり、後からきた人のためにパイプ椅子を運ぶ館員が走る。岡村氏は今最も刺激的な説を展開している。遠くからきた人もあるようだった。人気の理由もわかる。博物館側としては予想外だったのだろう。

銅鐸博物館の蓮池

岡村秀典氏は中国考古学が専門で、鏡の研究で大きな成果を上げている。特に前漢から後漢にかけての漢鏡編年は至るところで用いられている。

氏は、毎年中国へ出かけて青銅器の調査をされていたが、コロナ禍で渡航ができなくなり、そこで国内の青銅器に注目して研究を始めたとのことだった。

難波洋三氏は岡村氏の先輩にあたり、京都大学時代から難波氏の銅鐸研究を横目に見ていたという。「私にはとても無理だと思った」と言われるが、どうなのだろうか。

今、どこの講演会に行っても多くの人が集まってくる。それほどに歴史に関心のある人がいるのだろう。講演会の内容は一般向けでもかなり難しい。専門的な知識が求められている。熱心にメモをとる人の姿がいつもある。それに自分が加わっていることが嬉しくもある。

 

2026年9月16日 徳島県の銅鐸を見に行く

阿波史跡公園 古代の邑(徳島市)

阿波史跡公園は銅鐸の出土した矢野遺跡・源田遺跡に近い。園内には三角縁神獣鏡を副葬した宮谷古墳も整備されている。

この日は一日雨の予報だったのでフィールドワークはあきらめて主に資料館を見学することにしていた。

始めに訪れた徳島市立考古資料館もこの公園の近くにある。最寄りのバス停から徒歩20分の距離なので雨が強いと困ると思った。それでもどうしてもここは外せなかった。

それについては後述する。早朝、まだ雨は降ってはいなかった。どこまで持つだろうかと思いつつ高速バスに乗った。

淡路島三原地区遠望

銅鐸をめぐるのに淡路島を外すのは惜しいが、今回は見送った。この辺りは昨年2月に歩いている。写真の高速道路の反対側にある、おのころ島神社を訪ねた

2月11日・12日 淡路島・阿波・吉備を歩いて考える - ねのみこもちのフィールドワーク

この三原平野はかつては広大な入海となっており、おのころ島神社はその名の通りの小島だった。昔からおのころ島と呼ばれていたかどうかはわからないが、おそらくこの地域を拠点とした海の民の信仰を得ていたのだろう。

写真中央にうっすらだが高層建築が見える。その付近で松帆銅鐸が出土したようだ。2015年に入れ子状態で発見された7個の銅鐸は採取された土砂の中から二次的に見つかったので正確な埋納場所は特定できていない。

またその右手にあたる丘陵地でも江戸時代から多数の銅鐸が発見されている。1966年には最終的に14本となる銅剣も見つかっている。地図で見ると銅鐸・銅剣の出土した場所は入海と外海の境となっている。海の民らが航海と漁撈の安全を祈ったのだろうか。

この地域の海の民については「日本書紀」応神22年3月5日条に「淡路の御原の海人」の語が見える。また履中即位前紀に見える「淡路の野嶋の海人」は淡路島北部を拠点とした海の民であり、製塩を生業としたことが知られている。昨年、その遺跡を訪ねた(上記リンクより)。

バスは大鳴門橋を渡る。海峡の波は荒い。渦巻いているのかどうかはわからないが、激しく白波が立っている。三原の海人たちはこの海を渡ったのだろうか。

鮎喰(あくい)川

鮎喰川は吉野川の支流。徳島市のシンボルでもある眉山の西麓を流れる。この川の作る谷間の地を本拠とした勢力が存在したようだ。

この地域の勢力は弥生中期(前3世紀〜前1世紀)に力を伸ばした。特に扁平鈕式段階(前1世紀)の銅鐸が特徴的だ。最後の突線鈕5式銅鐸も発見されていることから中期から後期(後1〜2世紀)にかけても安定した存在だったように見える。

また宮谷古墳の三角縁神獣鏡は比較的早い段階のもののようだ。最終形式に近い銅鐸と三角縁神獣鏡が、ことによると同時期に存在していたのではないかと感じる。

この直感が私を徳島へと導いた。どうしても鮎喰川流域を見なければならない。

徳島市立考古資料館展示室

開館間も無く考古資料館に到着した。ここまで雨に降られてはいない。

正面の銅鐸が気になるが、左の旧石器・縄文の展示から見学した。貝殻を敷き詰めた凝った展示だ。弥生土器は農耕・祭祀・葬礼など、さまざまな場面で用いられた土器が分類されてわかりやすい展示となっている。正面左の一群は鮎喰川流域の特徴的な土器で、県南部で産出する水銀朱を運ぶために東部瀬戸内から大阪湾岸へ持ち込まれたとのことだった。

やはり阿波は朱の国だ。どの資料館でも水銀朱についての展示がある。ヤマトの王墓で大量に用いられた朱にも阿波産が含まれているのだろう。阿波はヤマト王権の最も重要な地域であったに違いない。

鮎喰川流域で出土した青銅器の展示

鮎喰川が作るこの谷は流れの東岸の名東町と西岸の国府町南部にあたる。この地域で最も古い銅鐸はここから少し川を遡った入田町で見つかった。

安都真銅鐸 徳島県立博物館

1959年、開墾作業中に偶然発見された4個の銅鐸は3個が鰭を立てた状態で並べられ、残る1個はその上に水平に置かれていたと言う。

最も大きな1号銅鐸は鋳上りも良いが、他の3個はあまり良い製品ではない。3・4号は粗製乱造された「亀山型」と呼ばれるものだ。播磨、あるいは大阪湾岸での生産が考えられている。

1号銅鐸は岡山県倉敷市の種松山銅鐸と同笵だ。安都真銅鐸は前1世紀前半の製作と思われる。埋納時期は明らかではないが、前1世紀後半の扁平鈕式新段階の銅鐸が下流の源田遺跡と名東遺跡から出土している。新たな銅鐸の鋳造とともに古い銅鐸は埋められたのではないだろうか。

源田遺跡の銅鐸と中広形銅剣(左2枚は市立考古資料館 右は県立博物館)

源田遺跡は鮎喰川の作る谷が急に開ける位置にある。

左の1号銅鐸は突線鈕1式でこの遺跡では最も新しい。中央は2号銅鐸。右写真の右に見えるのが破片のみの3号銅鐸。2・3号は扁平鈕新段階のもので、3号は名東型と呼ばれるこの地域特有の様式だ。

1948年、これもまた開墾中に発見された。1・2号は少し離れて鈕を下に、ほぼ逆さまに埋められていた。中広形銅剣はその間にあったようだ。3号の破片については良くわからない。

3号には水銀朱が付着しており、これは次に紹介する名東銅鐸とも共通する。

名東銅鐸と出土状況復元 市立考古資料館

源田遺跡からさらにくだったところに名東遺跡がある。上の写真では川の左手になる。縄文時代からの複合遺跡で、古くから人の暮らした場所だ。

この銅鐸の文様には六区袈裟襷文正統派名東型と、長い名前が付けられている。源田2・3号と同じ扁平鈕式新段階だ。

難波洋三氏(島根大学)は扁平鈕式新段階に大きな画期があったと言う。銅鐸の画期と言えば「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へ変化した突線鈕2式段階だが、それにも匹敵する画期だと言う。

扁平鈕式銅鐸は古段階の石製鋳型から土製の新段階になると大型化する。この時、突然、桜ヶ丘4・5号銅鐸を祖とする数種類の銅鐸群が派生した。六区袈裟襷文正統派の誕生だ。

この中で、最も精巧な仕上がりの横帯分割型は瀬戸内東部での生産と思われる。阿波に誕生した名東型は後に横帯分割型に吸収され、近畿式・三遠式へと受け継がれる。

同時期に播磨に生まれた閏賀(うるか)型は後継する銅鐸群が見えない。また飾耳のないタイプもあり、これは榎名銅鐸を経て突線鈕1式大福型へと発展する。難波氏はこのタイプは近江で生産されたと考えている。

名東型は四国東北部に限られるローカルな形式だったが、その始まりは横帯分割型からの分離であり、やがて戻ったのではないだろうか。

名東銅鐸は1987年、発掘調査により検出された。全面に水銀朱が塗られていることがわかっている。真っ赤な銅鐸とはどのようなものだろうか。私たちは緑青で青緑色の銅鐸か、復元された金銅色しか知らない。しかし、全体を朱で塗られた銅鐸は実在したのだ。内部に朱の痕跡の見られるものもある。

左:矢野銅鐸(市立考古資料館)中・右:埋納状態の復元(県立埋蔵文化センター)

鮎喰川流域では源田2・3号、名東と、3個の扁平鈕式新段階の銅鐸が見られるが、次の突線鈕1式は源田1号銅鐸だけだ。

これは一口に鮎喰川流域勢力と言っても、ゆるやかな連合体であり、具体的には鮎喰川東岸と西岸、さらに上流もしくは下流域に中心となる集落が存在していたのではないだろうか。

それがそれぞれの銅鐸で祭祀を行っていたのだ。それがひとつに集まる時が来た。何故その必要性が生まれたのかはわからないが、鮎喰川流域の勢力は1個の銅鐸での祭りに結集した。その銅鐸が源田1号であり、その本拠地が源田遺跡付近だろう。

突線鈕5式の矢野銅鐸は最終段階の製品である。厳密には最も新しい大岩山第1地点1号の前段階とされるが、その差は20年ほどではないだろうか。

しかしここに考えなければならないことがある。鮎喰川流域勢力も他の阿波勢力同様に水銀朱を元手に交易を拡大していたはずだ。「見る銅鐸」は近江の野洲川デルタを拠点とした湖南政権が威信財として各地へ配布していた。

だが鮎喰川流域には「見る銅鐸」の製作が始まって、最終段階に至る約100年間、新型の銅鐸が入ってきていないのだ。矢野銅鐸の存在は湖南政権との良好な関係を示すが、それまでに「見る銅鐸」が下賜されなかった理由がわからない。

無論それはまだ見つかっていないとも言えるし、すでに失われたとも言える。

矢野銅鐸の特徴はその丁重な埋納にある。中央の写真の奥に見える木製品は銅鐸を納めていたと思われる容器の復元だ。このような例は他には見られないのではないか。

銅鐸の埋納抗の周囲には7本の柱が建てられていた。これも異例だが、神庭荒神谷遺跡でも柱の跡があったそうなので、他に例があるかも知れない。私はホケノ山古墳の埋葬施設の周囲に立てられていた柱を連想するのだが。

天石門別・八倉姫神社鳥居 史跡公園の入口でもある

資料館を出ると晴れていた。重い雲が消え、晴れ間が見えていた。少し暑い。

三角縁神獣鏡の出土した宮谷古墳へ行ってみた。

宮谷古墳

古い時期の古墳は山頂や丘陵に築かれる。地形を利用するからだろう。墳頂に登ると北方は良く見えるのだが、東の鮎喰川方面は木々に阻まれて良く見えない。

三角縁神獣鏡はその前半を「舶載」、後半を「仿製」と捉えることが定着している。

「舶載」とは文字通り輸入されたとの意味で、中国製と考える。「仿製」は中国製を真似て作ったとのニュアンスで用いられている。それは「舶載」鏡が精巧で「仿製」鏡が粗雑だとの理解から来ている。

しかしそうだからと言っても中国から三角縁神獣鏡が1面も出土していない以上、それが中国製だとは断言できない。ここではこれ以上深入りはしないが、一応「舶載」「仿製」とカッコ付きでこの言葉を用いる。

宮谷古墳出土の三角縁神獣鏡

岩本崇氏(島根大学)は「舶載」三角縁神獣鏡を5段階に分類している。三角縁神獣鏡は7期の漢鏡に続いて3世紀前半に作り始められる魏晋鏡に含まれる。その要素も多く共通部分を持ち、魏晋鏡の影響下に三角縁神獣鏡の製作が始められたと考えられる。

この写真でいうと左の2面が「舶載」第2段階、右の1面が「舶載」第3段階となる。いずれも早い段階のものでちょうど卑弥呼が遣使した240年ころに重なる。

私は、突線鈕5式銅鐸は1世紀の終わりか2世紀の初頭には生産を終了していたと考えているので、3世紀前半に製作が始まった三角縁神獣鏡とは100年ほどの隔たりがある。はじめの私の直感にはいささか無理があるだろうか。

矢野銅鐸の埋納抗からは弥生後期後半の土器が出ている。2世紀のものだ。これが銅鐸埋納の時期を特定するとなると、矢野銅鐸は製作されてから長くとも100年ほど伝世して埋納されたとも考えられる。

それでも三角縁神獣鏡の時代とは重ならない。やはり私の直感は間違っていた。それでも矢野銅鐸を埋納した勢力と宮谷古墳の被葬者が無関係とは思えない。最終段階の銅鐸を丁重に埋納し、古い段階の三角縁神獣鏡を入手したのは同じ勢力と考えて差し支えないと思う。

資料館で銅鐸と鏡を並べての展示を見て、私は鮎喰川流域では銅鐸から鏡への移行がスムーズに行われたのではないかとの印象を得た。つまり、倭国乱を挟む湖南政権からヤマト王権への権力の移動に際して、この地域では大きな動乱はなかったとの感触である。

宮谷古墳から出土した三角縁神獣鏡の同笵関係 市立考古資料館

資料館に上のようなパネルがあった。これからも鮎喰川流域勢力の他地域との交流が見えてくる。最も関係が深かったのはヤマト王権だろうが。

バスに乗り、徳島駅へ戻る。今日はバス移動の繰り返しだ。

駅前で次の目的地である徳島県立博物館へのバスを待っていると、西の空が真っ暗になった。いよいよ雨が来る。やがてビルの合間に見える眉山が白く煙り始めた。強い雨になりそうだ。

幸い、降り出す前に乗車できた。すぐに豪雨となった。

到着するとやや雨足は弱まっていた。

県立博物館は文化の森総合公園内の複合施設の中にある。この日はタイトなスケジュールなので、博物館へ直行。入館しても恐竜やナウマンゾウは横目に流して、銅鐸を目指す。

県立博物館の銅鐸展示

これを見たかった。レプリカもあるが県内で出土した多くの銅鐸が並んでいる。源田銅鐸もある。

今回は鮎喰川流域が主目的だったので、徳島県内の他の銅鐸については詳しくは記さないが、この博物館の立地する地域から出た星河内美田(ほしごうちみた)銅鐸について少し。

この美しい名前の銅鐸は残念ながら破壊され、その破片も分散して所蔵されている。

文化の森を流れる園瀬川は吉野川に合流することなく海へ注ぐ。鮎喰川流域とは眉山を挟む隣の谷を形成している。

星河内地区は文化の森を数キロさかのぼった位置にある。現代の地図で見る限り鮎喰川流域へは低い尾根を挟んでそれほど離れてはいない。

1932年、計7個の銅鐸が出土。その後放置されて壊された。破片は分散して保管されることとなった。

左・中:星河内美田銅鐸 右:伝徳島県内出土銅鐸

左右の写真は県立博物館での展示。中央は『徳島の銅鐸』p.22より。分散する前の撮影。

破片はそれぞれ、県立博物館の他、東北大学・同志社大学・辰馬考古資料館に保管されている。私はこの夏、京都国立博物館で開催された「辰馬考古資料館の名品」展で実見している

2026年8月29日 京都国立博物館で辰馬考古資料館の銅鐸を学ぶ - ねのみこもちのフィールドワーク

ちなみにリンク先のブログ内では星河内美田銅鐸には言及していない。

2002年、徳島県立博物館ではすべての破片を集め、詳細な調査を行なった。その結果、銅鐸は7個以上存在することが確認された。8個目の銅鐸があったかもしれない。

森岡秀人氏(古代学研究会)は銅鐸は偶数で使用して埋納したと主張する。加茂岩倉銅鐸は39個ではなく40個、松帆銅鐸は7個ではなく8個のはずだと言われる。そうであれば星河内美田銅鐸も8個だったと思えてくる。

また星河内美田銅鐸は安都真3・4号と同じ亀山型とわかった。『徳島の銅鐸』では星河内地区と安都真地区が近いことを強調している。出土地不明の徳島県内銅鐸も同じ亀山型であるので関連が指摘される。

亀山型銅鐸は扁平鈕式新段階に集中して作られた。前1世紀中頃と思われる。播磨で作られた「石井谷型」を祖型としているので、この地域で作られたのだろうか。出土した銅鐸のいずれもが「粗製乱造」の表現に合致している。薄手なので金属原料の使用量も少ない。

同時期には六区袈裟襷文正統派と呼ばれる精巧な銅鐸群がある一方、粗雑な銅鐸が量産されている。なにやら階級差の現れのように思える。

見学後、『徳島の銅鐸』を購入。

『徳島の銅鐸』初の徳島県内出土銅鐸ガイドブック!!(064号情報ボックス) - 徳島県立博物館

徳島県内では約50個の銅鐸が出土している。その内、現存する32個の写真が掲載されている。

博物館を出ると雨はほぼ上がっていた。バスに乗り、駅に戻る。この日、唯一の電車移動だ。時間があるので駅前にある市立図書館に行ってみた。

綺麗な図書館だ。蔵書も整然としている。こんな図書館は心地よい。

郷土資料の棚を見ると阿波邪馬台国説の本がずらり。思わず苦笑い。

県立埋蔵文化財センター「レキシルとくしま」右端に矢野銅鐸埋納状態復元展示

列車に乗っている内にまた雨が降り出した。板野駅から埋文センターまでは約20分。しかしここへはどうしても行きたかった。

そのひとつが矢野銅鐸関係の展示であることは言うまでもない。

萩原1号墓出土品

それ以上に見たかったのがこれだ。石野博信氏(兵庫県立考古博物館)は埋葬施設の構造や画文帯神獣鏡などからホケノ山古墳との類似を指摘し、ホケノ山の被葬者は阿波の出身で、ヤマト王権の重要人物だと言う。

その成否はわからないが、萩原1号墓とホケノ山古墳の被葬者が関係していそうな気はする。ヤマト王権成立に阿波の勢力が関係しているのは間違いない。阿波は王権にとって重要な地域だった。それが水銀朱の生産だ。

水銀朱関連土器と精製作業の復元

水銀朱は徳島県南部で産出する(阿南市若杉山遺跡)。弥生中期には鮎喰川流域やこの板野郡地域でも朱の精製が行われていた。両地域の関係性はわからないが、それぞれヤマト王権と密接に関わっていたことは明らかだ。

画文帯神獣鏡は三角縁神獣鏡に先立つヤマト王権の威信財と考えられる。鮎喰川流域に最終段階の銅鐸が埋納されていたことと考え合わせると、鮎喰川流域勢力は湖南政権に近く、板野郡地域の勢力はヤマト王権に近かったとは言えないだろうか。

それでも鮎喰川勢力は王権と緊張関係にはなく、早くから古墳文化と三角縁神獣鏡を受け入れている。そこに朱が介在している。王権と関係を保ちながら近畿式銅鐸を丁重に埋納できる環境が整っていた。

鮎喰川流域にはまだまだこだわりたい。

埋文センターを出ると雨が強くなっていた。バス停までは5分ほどだ。早く来てくれれば良いが。

2026年8月29日 京都国立博物館で辰馬考古資料館の銅鐸を学ぶ

京都国立博物館

兵庫県西宮市の辰馬考古資料館は現在建て替え中だ。2028年の春、開館が予定されている。銅鐸の研究を始めたちょうどその頃、資料館建て替えを知り、残念に思っていた。

この春、京博で辰馬の名品展示が行われると聞いた時にはまだ銅鐸についての情報はなかった。62点の辰馬考古資料館の銅鐸がすべて展示されると知ったのは6月になってからだった。

当然、行く。同時開催の「埋納」展も銅鐸埋納との関連で興味があった。

8月29日には京博名誉館員でもある難波洋三氏の講演があった。それに先立ち、予習として7月14日の初日に見学した。

京都国立博物館は展示資料などの写真撮影を禁じている。しかし公式アカウントでは館内の様子を公開しているので、その画像を借用する。トリミングなどの加工をしないので京博マスコットのトラりんが登場する。

京都国立博物館 (@KyotoNatMuseum) / X

以下のリンクでは銅鐸展示の動画が公開されている。

www.instagram.com

難波洋三氏は辰馬考古資料館の評議委員もされている。この縁で全銅鐸の展示となったとのことだ。難波氏はすべての銅鐸を一度に展示するのは今回が初めてで、今後も難しいのではないかと言う。再来年開館する新資料館でもこれほどの展示スペースは確保できないと言うことだ。

1976年に開館した辰馬考古資料館は北辰馬家三代当主悦蔵(1892〜1980)のコレクションを所蔵している。また悦蔵の祖父、初代悦蔵(悦叟 えっそう 1835〜1920)と親交のあった富岡鉄斎(1836〜1924)の作品も多数。

辰馬悦蔵は京都帝国大学で考古学を修めた。家業の酒造を継いだ後も研究を続け、その中で銅鐸の散逸を知り、自らが収集して保全を図ろうとした。

辰馬家のコレクションは銅鐸の他にも縄文土器を始めとする考古資料が豊富だ。研究と同時に収集したことで散逸を免れた資料も多い。

また阪神間での考古学研究に出資し、その振興に努めた。桜ヶ丘銅鐸の調査報告書の出版にも悦蔵が関わっている。

銅鐸の展示室 公式Xより

辰馬悦蔵の北辰馬家は「白鷹」ブランドで知られる。悦蔵の祖父は「白鹿」の十代辰馬吉左衛門(〜1855)の三女と結婚し、分家した。

悦蔵の学問に対する姿勢は上方商人の町人文化の伝統があると言う。江戸時代、財を成した商家は盛んに学問・芸術に出資した。文化サロンを開き、文人・画家との交流を深めた。

そのようなひとりに木村蒹葭堂(けんかどう 1736〜1802)がいる。大坂北堀江の造り酒屋の長子として生まれたが10代には漢詩・書画の才能を見せ、家業を継いでからも学芸は続けた。55歳の時、密告を受け、酒造から離れざるを得なかった。それでも再興し、船場で文具商を営んだ。

辰馬悦蔵は蒹葭堂に興味を持っていたと難波氏は言う。悦蔵のコレクションにも蒹葭堂の書籍がある。

木村蒹葭堂「奇貝図譜」 公式Xより

京都国立博物館平成知新館に入ると、まずエレベーターで3階へ。第1展示室では、ずらりと並ぶ銅鐸に圧倒される。展示室奥の巨大な突線鈕式銅鐸が気になるが、気持ちを抑えて初期段階の銅鐸から見学する。

銅鐸の変遷については以下を参照していただきたい

nekozame.hatenablog.com

銅鐸は現在約600個が確認されているが、最古段階の菱環鈕式は12個しか見つかっていない。その内の2個が辰馬コレクションにある。

菱環鈕式銅鐸

左:辰馬428号銅鐸 出土地不明(京博リーフレットより)

右:辰馬402号銅鐸 出土地不明(辰馬考古資料館『銅鐸』国立国会図書館デジタルコレクションより)

右のものは鈕を切り取り、型持ちの穴を埋めて花器に転用された。今回の展示でも同様の加工がされた銅鐸が集められていた。

次の外縁付鈕式段階では多数の同笵銅鐸が確認されている。

外縁付鈕式の同笵銅鐸 左から順に鋳造された

左:桜ヶ丘1号銅鐸 神戸市東灘区出土(Wikipediaより)

2番目:辰馬405号銅鐸 出土地不明(複製 神戸市立博物館)

3番目:新庄銅鐸 滋賀県守山市出土(倉敷考古館HPより)

4番目:辰馬404号銅鐸 出土地不明(複製 神戸市立博物館)

右:泊銅鐸 鳥取県東伯郡出土(三木文雄『銅鐸』柏書房1983 p.22)

この段階では銅鐸鋳型は石製を用いており、サイズが限定されるが鋳型の持ちが良く、同じ鋳型から作られた兄弟銅鐸が多く確認されている。

かつてはここにあげた5個が最も多い例だったが近年、難波洋三氏があらたに7個の同笵銅鐸を確認された。九州国立博物館所蔵の出土地不明銅鐸から鳥取県立博物館所蔵の伝大阪府出土銅鐸までの鋳造順も明らかとなった。この中に辰馬銅鐸は含まれていない。

この7個の兄弟銅鐸は、4番目までは両面同じ鋳型を用い、5番目からは片面の鋳型を新調している。途中で破損したのだろう。銅鐸はふたつの鋳型を向かい合わせて作る。興味深い例だ。

井向1号銅鐸(辰馬403号)の絵画

福井県坂井市出土の井向1号銅鐸は腐食や錆で傷んでいるが、良く見ると細かい絵画が施されている。右は梅原末治(1893〜1983)による復元図(佐原真『銅鐸の絵を読み解く』小学館1997 p.186)。

銅鐸絵画は桜ヶ丘4・5号銅鐸や伝香川県出土銅鐸のように全面に整然と配列されるものが良く知られるが、横帯文や鈕の部分に小さく刻まれるものが古くからある。

この銅鐸は絵画の区画が設けられているので、次の段階への過程と言えるのではないだろうか。銅鐸絵画についてはこれからだ。

次の扁平鈕式段階には鋳型が石製から土製へ変わる。石製を古段階、土製を新段階と呼ぶ。鋳型が土製になることで銅鐸は大型化するが同笵が激減する。

扁平鈕式段階の銅鐸

左:古段階・辰馬421号銅鐸 出土地不明(京博リーフレットより)

中:新段階・閏賀銅鐸(辰馬435号)兵庫県宍粟市出土(梅原末治データベースより)

右:新段階・伝淡路川出土銅鐸(辰馬436号)伝兵庫県洲本市出土(松帆銅鐸報告書Ⅱより)

421号は石井谷型、435号は閏賀型と呼ばれている。〇〇型と言うのは銅鐸の型式で、作風が似ているので同じ工人集団の製作と考えられる。石井谷型と閏賀型はともに播磨が制作地だったと思われる。

436号は東海派に分類されている。このグループは北摂を本拠としていたが次の突線鈕式段階に東海地方へ移動し、三遠式銅鐸の母体となる。

冒頭の写真のパネルに大きく印刷された銅鐸は大阪府南河内郡太子町鹿谷寺(ろくたんじ)出土の辰馬416号銅鐸。これもこの段階の銅鐸で、神戸市東灘区出土の渦森(うずがもり)銅鐸と同じ渦森型と呼ばれる。摂津での製作が考えられる。

突線鈕1式の流水文銅鐸

流水文銅鐸は外縁付鈕式段階では主流と言えたが、扁平鈕式段階にはごく少数の例しかない。左のふたつの銅鐸は奈良県天理市出土の石上1・2号銅鐸。右は石上2号銅鐸と同笵の辰馬406号銅鐸。土製鋳型での同笵の一例だ。

石上1号銅鐸(橿考博『銅鐸』展図録2009 p.9)

石上2号銅鐸(宮内庁HPより)

辰馬406号銅鐸(銅鐸博『大岩山銅鐸の形成』展図録2021 p.11)

この3個の流水文銅鐸は系統がはっきりしない。出土地不明の辰馬406号も江戸時代の持ち主が大和国在住であったことがわかっているので、これも奈良県出土と推定されている。

銅鐸は次の突線鈕2式から急速に大型化し、いわゆる「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へ変化する。

「見る銅鐸」の展示

中央に一際大きく見える銅鐸が辰馬450号。静岡県伊豆市堀切益山寺出土と伝わる。突線鈕5式の最終段階の近畿式銅鐸だ。これらの製作を以って銅鐸の祭りは終わる。

ここに何らかの政治的な動きが考えられる。具体的には「魏志倭人伝」に見える倭国乱と卑弥呼の共立が銅鐸の終焉に関わっている。湖南政権からヤマト王権へ、これまでにも言及してきたが、最終段階の銅鐸埋納の状況を調べることで銅鐸の終わりの風景を明らかにできるのではないかと思っている。

鋳放しの銅鐸と呼ばれる辰馬434号銅鐸

辰馬銅鐸には面白い資料がある。この鋳放しの銅鐸もそのひとつだ。中と右の写真は橿考博『銅鐸』展図録2009(p.18)から。

青銅器は鋳造に失敗すると再度溶かされてリサイクルされる。そのためこのような銅鐸が残されることはない。中央の写真で見ると通常の銅鐸より長く見える。銅鐸は中空にするために外側の鋳型の中に中型と呼ばれる粘土製の型を入れて、その隙間に青銅を流し込む。

隙間を作るために外型との間に型持ちと言う粘土材で中型を固定する。鋳上がると型持ちの部分が穴として残る。型持ち孔と言う。銅鐸に目のように開いている穴がそれだ。

型持ち穴は身の部分に8ヶ所(片面4ヶ所)、舞に2ヶ所できる。鋳上がった銅鐸は裾の型持ち孔のところで下を切り離す。そのため下の型持ち孔は欠けたように残る。

ところが434号銅鐸の下の型持ち孔は穴として残っている。上部に大きな穴が開いているので明らかな失敗作だが、リサイクルされることなく捨てられたようだ。

右の写真では中型の上にはみ出した原料がそのまま冷えて固まっている。

このような資料が残されていることで銅鐸の製造工程が見えてくる。例えば、はみ出した原料が中型の上だけにあることで、中型より外型が高く作られていたことがわかる。

韓国慶州市入室里(にゅうしつり)遺跡出土青銅器(京博リーフレットより)

写真中央の小さなベルが馬鐸。左上のやや大きなものが小銅鐸。その下の細い棒状のものが小銅鐸を鳴らす舌だ。この小銅鐸が日本列島の銅鐸の原型とも考えられている。

小銅鐸は日本でも多く出土している。おそらく朝鮮半島の小銅鐸から派生したものだろうが、それがそのまま銅鐸へ進化したとは簡単には言えない。

小銅鐸はほぼ10cm以下のまさに小さなものだが、最古段階の菱環鈕式銅鐸でも初期から約20cmの大きさで、小銅鐸にはない文様がある。小銅鐸と銅鐸の間はいわゆるミッシングリンクになっている。

また国内出土の小銅鐸の多くは銅鐸の模造品であり、銅鐸成立以後の製作とされる。銅鐸のように埋納されることはなく、集落遺跡から出土する。

花器に転用された辰馬453号銅鐸(京博リーフレットより)

このような改変を見ると無惨な思いになるが、江戸時代の人たちには粋(いき)に見えたことだろう。鈕を切り取り、型持ち孔を塞いで花器としている。使う時は上下を逆にし、取り付けた金具で壁に引っ掛ける。

銅鐸の展示室には各地で発見された銅鐸片や銅剣・銅矛も展示されている。また梅原末治の『銅鐸の研究』(1985)の自筆原稿もある。著者から寄贈されたものだそうだ。

3階第2展示室には銅鐸以外の考古資料が並ぶ。見渡す限りの縄文土器は圧巻だが‥‥、見ても良くわからない。

学生時代から玉の研究をしていた辰馬悦蔵の卒業論文と玉に関する資料も展示されている。

三角縁四神四獣鏡 伝大分県宇佐地方出土 公式Xより

この秋、九州国立博物館で開催される「卑弥呼の鏡」展を見学予定なので、今、必死で三角縁神獣鏡の勉強をしている。これまでおろそかにしていたので図像の見方も何も良くわかっていなかった。

少し勉強したせいで、この鏡を見てもどこを見るべきか何となくわかる。

次に2階に降りると、第1展示室には富岡鉄斎の作品が並ぶ。第2展示室には鉄斎作品の他に木村蒹葭堂関連の資料が展示されている。

ここにも銅鐸がある。京都市右京区京北下弓削町出土と伝えられる辰馬422号銅鐸だ。これには富岡鉄斎の箱書きがあるのでここに展示されている。

辰馬コレクションの展示は以上だ。続いて常設展示を見ながら1階の「埋納」展へ移動する。

「埋納」展示室 右端に銅鐸が見える

この企画展示は仏教の色彩が濃い。仏塔の心礎に埋められた舎利容器や経典、経典を治める経筒などだ。冒頭写真のパネルにデザインされた毘沙門天立像は手のひらに乗るほどの小さなものだが、素晴らしい作品だ。

「埋納」展の最初に銅鐸が展示されている。

明石(あけし)銅鐸 京都府与謝郡出土

銅鐸の埋納には謎が多い。出雲の神庭荒神谷遺跡の銅鐸の中には菱環鈕式が1個含まれている。銅鐸の歴史の最初段階から埋納が行われていた。また、同遺跡から検出された銅剣・銅矛はいずれも刃を上に向けた状態で互い違いに並べて埋められていた。銅鐸は鈕を向き合わせた状態で鰭を上に向けられていた。青銅祭器の埋納には「作法」があったようだ。

銅鐸の埋納は少数の例外はあるが、ほとんどの場合、鰭を上に向けて埋められている。銅鐸分布圏全体で「作法」が守られている。これはまた武器型の青銅祭器にも共通する。この全国的とも言える埋納の「作法」はどう説明できるのだろうか。

8月29日午後、「今日は京博で辰馬考古資料館の銅鐸を見よう」と題して難波洋三氏が講演された。

辰馬銅鐸は最古段階から最終段階までを網羅しており、その変遷をたどることで銅鐸の歴史を語ることができる。その数62個はこれまで見つかったすべての銅鐸の約1割だ。

この日の講演は表題の通り、銅鐸全体を見渡した大まかなもので、難波氏の得意とする微細な分類にまでは踏み込まれなかった。やや物足りなさは残ったがいくつかの貴重な発言が聞けた。そのほとんどはここまでの展示紹介の中に記した。

講演の終わりの方で難波氏は岡村秀典氏の新説に触れた。実は、岡村氏が所長をされている黒川古文化研究所も辰馬考古資料館のある兵庫県西宮市にあるので、辰馬悦蔵の紹介の中で言及されるかと思ったが、何も言われなかった。

黒川古文化研究所は金融で財をなした黒川家のコレクションから始まっている。難波氏が言う大阪、関西の町人文化の流れにつながる。

難波氏は最新の論文で岡村説への批判、と言うより注文をつけている。これに関して私も検討をして見た

nekozame.hatenablog.com

講演では岡村説の紹介にとどめ、批判的な言葉はなかった。

おふたりは京都大学の同窓とのことで、岡村氏については「昔はあまり変わったことは言わなかったが定年を過ぎてから過激なことを言うようになった」とのことだった。

私には難波説の「近畿式銅鐸は近江で製作された」と岡村説の「最大の銅鐸は倭国王帥升のシンボル」との考えは基本的には同じことを言っているように見える。これは森岡秀人氏の伊勢遺跡をめぐる説とも一致している。

細かい違いはあくまでも王権の地をヤマトとする岡村説に対して近江を重視する難波・森岡説と言うことになろうか。

鏡と銅鐸を同時に分配したとする岡村説では当然ヤマトが王権の地となるが、銅鐸と鏡を切り離して考えると銅鐸の集中する北摂・近江ラインと漢鏡の出土の多いヤマトは異なる勢力の支配下にあったと思える。その時代も異なってくる。

今のところ私は後者がより合理的だと考える。

10月3日、野洲市の銅鐸博物館で岡村秀典氏が講演される。博物館を再訪したいと思っていたので楽しみだ。

www.city.yasu.lg.jp

 

2026年7月11日「倭国がゆらいだ時代」を聴いて

奈良県桜井市の春日神社 境内が脇本遺跡

この日は桜井市図書館で開催される纒向学セミナーに参加する。講演会まで時間があったので市内の脇本遺跡を訪れた。数年前、泊瀬の谷を下ったが、今回は三輪から歩いてみた。

左:金屋付近からの三輪山 右:「仏教伝来の地」碑

三輪から泊瀬への道は古代の要衝だった。大和川(初瀬川)沿いに市が立ち、人やものの交流が行われた。外国からの使節も川を遡り、この付近に上陸したことだろう。これをもって、ここが仏教伝来の地とされた。

脇本遺跡は春日神社付近を中心とする縄文から奈良時代までの複合遺跡だ。特に3つの時期の遺構が注目される。

1、弥生時代後期後半から庄内期。邪馬台国の時代だ。青銅器鋳造関連遺物や鉄器生産関連遺物が注目される。王権の中枢が纒向にあった時代、金属器生産を担っていたと思われる。このころ、纒向周辺では銅鐸を破壊して青銅器の再生産が行われていた。脇本遺跡からも銅鐸の破片が出土している。

2、古墳時代中期後半から後期。5世紀後半から6世紀。大阪平野での巨大前方後円墳の築造が終わりを迎えつつある時代だ。それぞれ5棟以上の竪穴建物と掘立柱建物が検出されている。雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡とするのが有力とのことだ。

私はこの時代の政権は河内のシキの宮と考えているので、ここは王宮ではなく東国との交流拠点だったと思う。

3、飛鳥時代。大型掘立柱建物が検出されている。天武朝の泊瀬斎宮との関連が指摘されている。

邪馬台国の時代、纒向の周辺には脇本・大福・布留などの大規模な集落・工房が広がっていた。まさに「首都」の様相だ。ところが、巨大古墳が纒向を離れ、奈良盆地北部や河内平野で築造されるようになると、「首都」的遺跡がまったく見られなくなる。それにはさまざまな仮説が出されているが、決定的なものはない。古墳時代最大の謎のひとつだ。

富雄丸山古墳出土とわかった三角縁神獣鏡 天理参考館

この日の講演に先立ち、6月4日に天理参考館での講演を聞いた。

天理参考館には富雄丸山古墳出土と伝わる3面の三角縁神獣鏡が展示されている。これらは同館が1955年に古美術商から購入したもので、明治時代に盗掘されたものと伝わっていた。盗掘品は1935年までに京都のコレクターが入手した。その内、鏡以外の出土品は1968年に京都国立博物館が購入した。

1972年、奈良県教委により富雄丸山古墳が発掘され、出土した石製品の一部が京博所蔵品のひとつと接合したために、京博所蔵の出土品が富雄丸山古墳出土と決定された。

しかし参考館所蔵の鏡については真偽不明とされていた。

この日(6月4日)この3面も鏡も富雄丸山古墳出土と明らかにした同館学芸員の藤原郁代氏が講演された。

藤原氏は3面の鏡を詳細に観察し、これらが鏡面を上にして重ねて埋められていたことを突き止めた。3面は少しずつずらして重ねられており、2面の鏡面には上に乗っていた鏡の縁の跡と思われる半円形の痕跡が見られた。

そして一番上にあった鏡にはよくわからない不思議な痕跡があった。上の写真の手前の鏡がそれで、鏡面の写真に点線で描かれている。

藤原氏はこの痕跡が京博所蔵の富雄丸山古墳出土品の中の用途不明の銅板に似ているとして、今年1月に照合を試みた。その結果、銅板と鏡の痕跡はほぼ一致し、長期間土中で重なっていたことがわかった。また銅板に認められる湾曲が鏡面の形状に応じて生じたものと考えられた。

これにより天理参考館の3面の鏡が富雄丸山古墳出土品と明らかになった。また東大阪市の石切劔箭神社に所蔵される、周辺にあったとされる古墳出土の鏡との関係も注目されている。

2025年9月22日 大阪府下を転々〜銅鐸の王権・水の祭祀・物部氏とは何かを考える - ねのみこもちのフィールドワーク

昨年、その鏡を見ているのだが、良く調べもせずに行ったので、ただただ感心しただけて終わった。反省。

富雄丸山古墳出土の蛇行剣特別公開 橿考博2024年4月(2枚の写真を合成)

2023年1月、奈良県立橿原考古学研究所は奈良市の富雄丸山古墳造出し部の埋葬施設から異例の遺物を検出したと発表した。それは長さ2m以上の長大な蛇行剣と大型の盾型銅鏡だった。いずれも過去に例のないものだ。

翌2024年2月、木棺内部から3面の銅鏡を発見。すべて直径20cm前後の大型鏡だ。

1号鏡、三角縁神獣鏡は桜井茶臼山古墳と佐味田宝塚古墳から同笵鏡が出土している。

2号鏡、虺龍文鏡は前漢に遡る伝世品で、国内の虺龍文鏡の中で最大となる。

3号鏡、画像鏡は後漢鏡。これも200年近い伝世の可能性がある。

富雄丸山古墳出土鏡の特別公開 橿考博2025年4月(画像を一部加工)

天理参考館の藤原郁代学芸員は富雄丸山古墳造出し部の副葬品は墳頂部に比べると異例だらけだと言う。

墳頂部埋葬施設の副葬品は一言すれば「正統派」。ならば造出し部は「異端」となるのだろうか。確かに蛇行剣や盾型銅鏡には類例がない。しかし木棺内部の鏡はそうではない。これをどう考えるのだろうか。「伝世」を意識すると異端性が見えてくるか。

異端と言えば、墳頂部副葬品の中の用途不明銅板はどうなるか。今回の新発見の立役者ではあるが、正統派の中にある異端とでも言えるだろうか。

富雄丸山古墳の築造された4世紀後半はヤマト王権に変動が起きたと言う。藤原氏によれば王権は魏・晋に朝貢し、その権威を背景に列島内を治めていたが、316年、晋が滅び五胡十六国時代に入るとヤマト王権は中国王朝の権威に基づく支配が不可能となった。

この時代背景が異例の副葬品に関係しているのだと藤原氏は言う。

これはこの日(7月11日)の纒向学セミナーの内容とつながってくる。

等彌神社

講演会の行われる桜井市立図書館の近くの等彌神社はいつも神秘的な雰囲気だ。

この日は神戸女子大学の寺沢知子氏が「倭国がゆらいだ時代ー4世紀に何が起きたのかー」と題して講演された。

まず「古墳時代」とはどんな時代なのか。それは「大王を推戴し政策を実行する『政権』が交替しながら3世紀中葉〜7世紀後半まで約400年間『ヤマト王権』が継続」した時代と言う。

この「政権」とは何かと言うと、後に葛城氏や大伴氏と呼ばれる「盟主」らの連合であり、「大王」は彼らにより「推戴」される存在だった。従って大王は血統で選ばれるのではなく、また盟主らも血統で継承されるのではない。

この時代は後の氏族のような血縁集団ではなく、たまたま近くに住んでいる「地縁集団」が連合して「政権」を構成していた。

では「古墳」とは何か。寺沢氏は古墳は基本的に「生前造墓」だと言う。それは「現首長の政治的立場を『可視化』」するものだからだ。

ヤマト王権の大王も、政権の盟主も、それぞれの地域首長も、その地位に着いた時から自らの墓を作り始める。例えば地域の首長は就任するとその時の政権盟主から「墳丘規格仕様」を受け取り、それに基づいた墳墓を作る。

墳丘を築き、石棺を運び、埴輪を樹立する「築造プロセス」を地域の民に見せることで王権との関係をアピールする。民から見ると王権の権威に基づく首長の存在に安心すると言うわけだ。王権からは威信財が配布される。首長はそれを公開し、墳墓に納める儀礼を行う。

地域首長が生きている間に墳墓の造営は続く。その間、政権盟主や大王が交替すると、また新たな威信財が配布される。首長はその都度、賑々しく儀礼を行い。墓に納める。

王権から複数回の威信財配布があり、その都度墓に納められる。これが時期の異なる副葬品が共伴する理由だと言う。なるほど。

行燈山古墳(奈良県天理市)

寺沢氏は晋の滅亡した316年ころから百済が高句麗を破った369年ころまでを「弛緩期」と呼ぶ。この時代はヤマト王権が権威の背景としていた中国王朝が消え去り、魏晋から贈られた威信財が効力を失う。これにより「政権規範が弛緩」したと言う。

それまで卑弥呼の「銅鏡百枚」などの中国系威信財の配布により王権の権威は保たれていたが、それが届かなくなることで王権が揺らいだと言うのだ。

その結果が富雄丸山古墳に見られるような「異端」の副葬品となった。

その流れは、中国系威信財秩序が弱体化すると、まず首長墓の造営が分散化する。

これまで政権の中枢にある人物はオオヤマト古墳群の地に造墓したが、弛緩期に入るとそれぞれの「本貫地」つまり地元に墳墓を築くようになる。4世紀にはオオヤマトでの巨大古墳の造営は終わり、奈良盆地北部の佐紀や西南部の馬見に巨大前方後円墳が築造されるようになった。これは豪族が地元に帰って墓を築くようになったからだと言う。

続いて、地元に戻った豪族はそれぞれ独自の交易を開始し、同時に「倭系新威信財」を創出した。

また埋葬構造において「性差・格差」が明らかとなった。例えば前方後円墳の後円部には男性首長が埋葬され女性や近親者は前方部に葬られるようになる。富雄丸山古墳でも墳頂部は男性、造出し部は女性と見られている。

「倭系新威信財」とは寺沢氏の造語で、複数の勢力が「復古的・特殊」なものを創り出し、それを入手した地域首長はリアルタイムで墳墓に納める。その倭系新威信財も4世紀後葉には供与が終わる。古墳時代中期に入ると王権が河内へ移動し、特に武具が威信財として用いられるようになった。

寺沢氏は明言されなかったが、巨大蛇行剣や盾型銅鏡もこの流れの中で見るべきものなのだろう。

メスリ山古墳(桜井市)から葛城山を見る

寺沢氏は弛緩期の古墳として富雄丸山古墳と橿原市の新沢500号古墳を例に挙げ、副葬品や古墳の形状の特徴について話された。考古学では異例だが「日本書紀」の記述に深く立ち入った発言もあり興味深かった。ことに「神武即位前紀」の奈良盆地平定説話が弛緩期に関わっているのではないかとの考えには頷けるものがあった。これについては自身でも調べてみようと思った。

講演で三角縁神獣鏡に触れた際、寺沢氏ははっきりと「国産」と言った。はっ、と胸をつかれて拍手しそうになるのを押さえた。私もそう考えているからだが、三角縁神獣鏡は魏晋の威信財であり、卑弥呼の「銅鏡百枚」も三角縁神獣鏡であることがほぼ定説化している。

しかし私にはどうしてもそのように思えない。詳しくは省くが、卑弥呼に贈られたのは100面だが三角縁神獣鏡は600面も出土している。倭製鏡もあるが、多くは中国製と考えられている。しかし中国からは1面も出土していない。

それは魏晋王朝が倭国のために特別に鋳造したからだと説明されている。そのようなことが本当にあったのだろうか。納得できる説明はまだない。

三角縁神獣鏡の製作に中国人が関わっているのは間違いない。ただしその生産が中国大陸で行われたかどうかははっきりとはしない。

2025年11月28日 前期古墳と漢鏡〜卑弥呼の鏡を考える - ねのみこもちのフィールドワーク

2025年12月20日 「卑弥呼の鏡」を探す。〜黒塚古墳・大和天神山古墳〜 - ねのみこもちのフィールドワーク

 

富雄丸山古墳は造出し付円墳だ。直径109mは円墳として最大で、円墳に造出しが作られるのはこれが初めてだ。個人的に興味を持っている湧水施設形埴輪も出土している。これもここが初現とのことだ。中期の古墳でよく見られるが前期では珍しい。

新沢500号墳は細長い前方部を持つ、柄鏡(えかがみ)形前方後円墳だ。柄鏡形といえばオオヤマト古墳群の中の桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳が連想される。オオヤマトの中でも特異な位置と形状の古墳だ。

メスリ山古墳の後円部に建つ八阪神社の参道は墳丘の南側にある。ここからは葛城山が手に取るように見える。私はメスリ山・茶臼山の被葬者は葛城に関係があるのではないかと思っている。新沢500号はメスリ山古墳と葛城山の中間に位置している。

寺沢氏の言う「本貫地」帰りがここで起きているのだろうか。

宝来山古墳(奈良市)

講演の後は寺沢薫センター長との対談だった。センター長も独自の説を展開されている重鎮なので、対談でもはっきりと主張される。講演の中で「日本書紀」に記される「トベ(女性首長)」への言及があった。私はヒメ・ヒコ制を前提としてトベは巫女王だと思っているが、センター長はこれを明確に否定する。知子氏も特に異論はないようだった。

巫女王と思われている女性首長らが単独で地域を支配していたとの考えだが、果たしてどうだろうか。説話的な記述が多く、文献から実態に迫るのは難しそうだ。

弛緩期に古墳築造が地方へ拡散した。北摂や乙訓では古墳時代前期から首長系譜が見られるが、南山城や和泉では前期後半から突然古墳造営がはじまる。王権と関わりなく墳墓を作り続けた地域と王権弛緩期に初めて古墳が現れる地域がある。

それぞれの地域の様相が異なることが面白い。400年前後、各地に200m級の前方後円墳が出現する。私はその代表的な古墳が佐紀陵山古墳(奈良市)であると考えて「陵山古墳グループ」と呼んでいるが、この現象にも「弛緩期」の視点を用いることができるのではないだろうか。

富雄丸山古墳をめぐる位置関係

富雄丸山古墳について、これまで宝来山古墳(奈良市)〜暗峠〜石切剣箭神社(東大阪市)を結ぶ青色のルートとの関連が指摘されてきた。私もこれに同感で、宝来山と富雄丸山の被葬者は密接な関係にあると思っている。

この日、寺沢知子氏は、それよりも南北に流れる富雄川に注目すべきではないかと言われた。そこには磐船神社(交野市)や矢田坐久志玉比古神社(大和郡山市)などの物部氏に関する伝承地が多い。富雄丸山古墳も物部氏との関連で考えるべきではないかとのことだった。

とは言え、石切神社もニギハヤヒを祭る物部の神社だ。この東西ルートも物部との関係を見出すこともできそうだ。富雄丸山から宝来山への道は佐紀古墳群、木津川を下って山城との関係が語られるが、東へ行き、和珥氏の勢力地である春日から南下すれば石上神宮への道も見える。

ただし私は物部氏と石上神宮の関係は6世紀以降だと考えているし、久志玉比古神社などの物部氏の伝承地もそれほど古くは遡らないと見られるので知子氏の見解に安易に賛同することはできない。

矢田坐久志玉比古神社楼門 プロペラが奉納されている

2024年4月、巨大蛇行剣特別公開に合わせて富雄丸山古墳から久志玉比古神社まで歩いた。祭神のニギハヤヒが天から降りてきた神であることにちなみ、かつて戦闘機に使われていたとされる木製プロペラが奉納されている。

蛇行剣 特別公開 - ねのみこもちのフィールドワーク

 

2026年5月6日 橿考博「葬る」展見学記

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館「葬る 弥生人は墓に何を託したか?」

この特別展にはすでに一度触れている。

2026年5月6日 纒向遺跡を歩く - ねのみこもちのフィールドワーク

大福遺跡の方形周溝墓の周溝から出土した銅鐸について新たな知見を得たので記録したが、今はまたさらに考える必要を感じている。今回のブログでも言及するつもりだ。

今回は展示図録に沿って内容を振り返りたいが、当日、興味のあるものばかりを集中して見たので、感想に密度の違いが出ていると思う。ご容赦を。

第1章 縄文の墓から弥生の墓へ

ここで興味を引いたのが次のパネル展示だった。特に弥生時代の墓の分類と地域性の図はわかりやすい。文章や写真ではわかり難かった墓制が理解できる。

墓の地域性と種類

第2章 近畿の区画墓

四角形状の墳丘の周囲に溝を巡らせた墓を「方形周溝墓」と言い、弥生前期末ごろ(前2世紀初頭)に大阪湾沿岸で出現した。それまでは平地に穴を掘り埋葬していたのが、溝で区画し、盛土して墳丘を形成するなど画期的に墓制が変容した。

ただし墓制の変化が住民の階層化と直接関連付けはできない。北部九州では甕棺墓への副葬品から序列が見て取れるのだが、弥生時代の近畿中枢では基本的に副葬品が見られない。従って副葬品から階層化を読み取ることができない。そのため近畿では「個人を突出させない社会」が形成されていたのではないか、との説が出ている。

奈良盆地では弥生中期前葉(前2世紀)に方形周溝墓が現れた。大阪湾沿岸から築造方法が伝わったのだろう。中期中葉(前1世紀前半)には盆地全域に爆発的な増加を見せるが、中期後葉(前1世紀後半)には急激に減少し、中期末(1世紀初頭)にはまったく造営されなくなる。

「大和地域では現在、約500基に及ぶ弥生時代中期の方形周溝墓が確認されているが、これらがその後の古墳時代初頭の周溝墓や古墳へと直接的に連続するわけではないのだ(図録p.27)」

さて困ったことになった。

周溝内で検出された土器
左:三河遺跡(磯城郡)中:出屋敷北十三(じゅうぞ)・南十三遺跡(御所市)
右:土橋遺跡(橿原市)

と言うのも、大福遺跡(桜井市)の銅鐸は方形周溝墓の溝の中から出土した。突線鈕式段階の銅鐸埋納の様相は奇妙だ。丁寧に埋納されているものもあれば、明らかに破壊廃棄されたもの、リサイクルに回されたものなどがある。

ただしそれらは最終段階の巨大銅鐸の場合で、突線鈕式の最初段階の大福銅鐸はその例から外れるとも考えられる。それでも溝の中からの出土は、まるで廃棄されたように思えた。

ところが「葬る」展においてヤマトでは方形周溝墓の溝の中で祭祀が行われていたとの知見を得て、これと大福銅鐸を関連付けた。つまり大福遺跡の銅鐸は墓に祭られたものと理解できるのではないかと思ったのだ。

しかし大福銅鐸の埋納時期は弥生終末期(古墳初期3世紀初頭)と考えられ(もう少し古い説もある)、図録に言う、弥生中期の奈良盆地の方形周溝墓とは直接の関わりを持たない古墳初期の墓から見つかっているのだ。

そうすると、弥生中期に行われた周溝内での祭祀との関わりが怪しくなる。弥生中期末に方形周溝墓の築造が途絶え、再び後期後葉から作られ始めるのだが、この時、周溝内祭祀が引き継がれたのだろうか。

これが明らかにならなければ大福銅鐸が周溝墓への祭祀として埋納されたとは言えない。またこの銅鐸はふたつの方形周溝墓の築造の合間に埋納されたと考えられている。大福遺跡での銅鐸埋納が墓とは関係なくなされた可能性は残される。

第3章 海をこえて

弥生時代には朝鮮半島からの墓制の渡来が見られる。北部九州の支石墓や箱式石棺がそれだ。

土井ヶ浜遺跡の貝製品と右:破片が人骨の枕として使用されていた壺

山口県下関市の土井ヶ浜遺跡では100基以上の箱式石棺墓が見つかり、人骨の多くは海に足を向け、頭骨をやや起こした状態で埋葬されていた。遺体は海を見つめるように眠っていたのだ。彼らは海の彼方からやって来てこの地に暮らし、海を思いながら眠りについたのだろうか。

104号人骨は女性と見られ、多くの貝製品を身につけていた。集落内で特別な地位にあった人物なのだろう。

第4章 土器に眠る

いよいよ吉野ヶ里遺跡を始めとする北部九州の甕棺墓だ。ここでは副葬品から社会の階層が読み取られる。

吉野ヶ里遺跡 イモガイ製腕輪

弥生前期(前3世紀まで)に北部九州では大型の甕を棺とする埋葬が定着した。中期前半(前2世紀)には甕棺は列状に埋められていたが、後半(前1世紀)にはいくつかの甕棺が固まって出土する。列状埋葬は被葬者間の歴史的関係が示されているように思える。つまり墓地を歩くことで自らの系譜がたどれるのだ。

これに対して、固まり(集塊)状埋葬は居住域または血縁集団を表すとも、階層化によるものとも考えられている。吉野ヶ里遺跡で集塊状に埋葬された甕棺のひとつ、SJ2775号墓からは石で蓋をされた甕棺の中に、右腕に25点、左腕に11点のイモガイ製腕輪をつけた女性が葬られていた。

甕棺墓SJ2775の出土状況と破砕副葬されていた前漢鏡(図録p.47)

石蓋と甕棺は粘土で目張りされており、粘土の中から細かく砕かれた前漢の銅鏡が見つかった。土井ヶ浜の女性と同様の巫女的な存在だったのだろう。これほどの腕輪を身につけていては日常生活は不可能と思われる。

吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓は特別な墓だ。首長層の墓域とも、選別された英雄たちの墓とも言われている。

2025年4月17日 初訪問 吉野ヶ里遺跡 - ねのみこもちのフィールドワーク

吉野ヶ里遺跡 北墳丘墓出土の銅剣

北墳丘墓は列状埋葬と同時期とのことだ。この時代に階層分化が始まったと見るべきか、英雄の出現と見るか、いずれにしても特殊な人物らがこの区画に葬られた。

吉野ヶ里遺跡を含む有明海沿岸では、玄界灘沿岸に見られるような鏡などの大量副葬がなされない。両地域には墓制の違いがある。「北部九州」の一語でくくることはできない。

柚比本村(ゆびほんむら)遺跡 SJ1137甕棺出土の赤漆玉鈿装鞘銅剣 右:復元品

佐賀県鳥栖市の柚比本村遺跡からは弥生中期初頭から後期初頭(前2世紀から1世紀半ば)の墓域が見つかった。墓域ではまず大型の木棺墓が営まれ、その周囲に41基の甕棺墓群が形成される。その中に写真のような華麗な副葬品も見られる。

柚比本村の墓域では後期初頭に甕棺墓の埋葬が終わり、それに続いて建物が建てられ、土坑に丹塗の土器が大量に捨てられる。これは埋葬された英雄たちへの祭祀が続けられたことを意味すると言う。吉野ヶ里の北墳丘墓でも同様の祭祀が続けられていた。

立岩遺跡10号甕棺墓副葬品 連弧文鏡

福岡県飯塚市の立岩遺跡からは弥生中期半ばから後期初頭(前1世紀から1世紀半ば)の甕棺墓が40基見つかった。特に10号甕棺墓からは前漢鏡6面の他、銅矛・鉄剣などの副葬が見られた。この地域は不弥国の有力候補でもある。奴国の須玖岡本D地点、伊都国の三雲南小路遺跡での鏡などの大量副葬にやや先立つ時代だ。

同じ時期の吉野ヶ里や柚比本村などでは銅剣・鉄剣の副葬は見られるが、大量ではない。鏡は巫女の墓に破砕副葬されていた他には英雄たちの墓では見られない。鏡の副葬、またその数量について玄界灘沿岸と有明海沿岸では大きな隔たりを感じる。

第5章 人と社会を繋ぐ墓

弥生時代が終わりに近づくと西日本では墓制に著しい変化が見られる。それまで北部九州では明確だった階層化が、日本海側と山陽で墳墓の大型化として現れる。特別な墳丘墓に眠る首長層が形成され、副葬品も多様化する。

ガラス製釧(くしろ)
左:大風呂南墳墓群1号墓(復元品)中:台湾 十三行遺跡 右:ベトナム(写真左上)

京都府与謝郡与謝野町の大風呂南墳墓群は天橋立を望む丘陵上にある。弥生後期後葉(2世紀)の墳墓群の中心となる1号墓からはコバルトに輝くガラス製釧をはじめとする多数の副葬品が検出された。

2025年6月5日「丹後王国」を歩いて考える。 - ねのみこもちのフィールドワーク

展示パネルで見るようにガラス製釧は台湾や東南アジアからも出土している。断面が五角形と言う共通する形式だ。中国大陸を介して朝鮮半島・日本列島・台湾・東南アジアと広がる海のネットワークが存在していた。

赤坂今井墳丘墓
左:頭飾り出土状況はぎ取り展示(丹後古代の里資料館)右:復元模型(弥生博「Revisit」展

京都府京丹後市の赤坂今井墳丘墓は1辺50〜60mの台状の墳丘の頂上に6基、裾部に19基以上の埋葬主体が見つかった。この内、墳頂の第4主体から120点のガラス製勾玉・管玉で作られた頭飾りが検出された。ここには「丹後の女王」が眠っていた。

第4主体と関連性が高い第1主体からは河内や四国東北部と関係するとみられる土器片が出土した。ヤマト王権を構成する勢力と丹後地域が深く関わっていたことを示している。

楯築墳丘墓

展示の最後は岡山県倉敷市の楯築墳丘墓だ。直径49mの円丘の両端に突出部を持つ特殊な形状で全長は推定83m。この地域では楯築以降、数基の弥生墳丘墓が築かれるが、最初にして最大のものが楯築墳丘墓だ。

2月11日・12日 淡路島・阿波・吉備を歩いて考える - ねのみこもちのフィールドワーク

特殊器台 左:楯築墳丘墓 右:宮山遺跡(岡山県総社市 弥生博「Revisit」展

埴輪のルーツである特殊器台は吉備を始まりとして出雲、ヤマトへ伝わった。弥生後期、西日本一帯に大きな影響力を持つ人物が突然吉備に現れた。この人物の率いた勢力は巨大墳墓の築造技術と特殊器台を用いた儀礼をヤマト王権中枢へ持ち込んだ。このことが古墳時代の始まりへとつながる。

そして楯築墳丘墓には謎の石がある。

弧帯文石 楯築墳丘墓収蔵庫

これはかつて墳頂にあった神社の御神体だったものだが、埋葬施設からもう1体の弧帯文石が出土した。こちらは熱を加えて破壊されていた。

弧帯文石 左:展示されたレプリカ 右:破壊副葬されたものの復元(史跡ナビより)

直弧文・弧帯文などの特殊な文様は西日本全体で見られる。さまざまな議論があるが、私には良くわからない。ただ、楯築墳丘墓の弧帯文石には顔がある。この顔は何だろうか。神か人か。

想像を逞しくすれば、これは被葬者の顔とは考えられないか。この石は古くから墳頂にあったと言う。ならば墓碑のようなものかも知れない。

こうも考えられる。楯築の被葬者は死んで神となった。弧帯文石に神として顔を彫られ、後世まで崇められた。

弥生から古墳への移行期、人の死の意味が大きく変わった。地上を支配した王は死とともに神となる。王が葬られた巨大な墳墓、それ自体が神して祭られた。前方後円墳は神像である、そのように今、思い始めている。

楯築墳丘墓から造山古墳の方角を見る 眼下の平野が古代吉備の都だった

 

2026年6月15日 大阪の津波碑を巡り、古代の津波を考える

堺旧港

近年、高知大学の研究により約2000年前に南海トラフ巨大地震とそれに伴う津波が発生した可能性が指摘されている。

岡村眞・松岡裕美「津波堆積物からわかる南海地震の繰り返し」『科学』2012・2

研究では太平洋岸に点在する湖沼の底にある堆積物を分析し、史料に見える大津波と突き合わせ、各地の津波の規模を推定している。

その結果、これまで史上最大と考えられていた宝永地震(1707)を超える津波が約2000年前に発生し、太平洋岸を襲ったことがわかった。

この研究では大阪湾を含む瀬戸内海での調査がなされていないので、様子を知ることはできないが、宝永地震の津波被害から内海での被害を想定することができる。

私はこの約2000年前の地震による津波で池上曽根遺跡や安満遺跡の巨大環壕集落が衰退したと考えている。高槻市の安満遺跡は現在でこそ内陸部だが、かつては河内湖に面した沿岸部だった。大津波は上町台地北端の狭い水道で威力を増して河内湖へ押し寄せたと思われる。

瀬戸内海沿岸部に高地性集落が営まれるのもこの頃。津波被害からの避難もあったのではないか。ただし、津波の想定域以外にも高地性集落が発生しているので、津波だけでは説明できない。しかし、かつて言われていたような軍事的・防御的意味だけが理由ではない。

考古学では自然災害や気候変動による環境変化を社会の変動と結びつけて考えることを極力避けて来たように思える。先日の弥生文化博物館開館35周年記念鼎談でも、「環境決定論」との言葉を出して三者が目を見合わせて苦笑いする場面があった。

思えばわが国の考古学が急速に発展した戦後は大規模な自然災害が少なかった。地震も津波も起きなかったわけではなく、被害もあったのだが、社会全体に大きな影響を与えるほどではなかった。明らかに現代社会に変化を起こしたのは1995年の阪神淡路大震災からだ。

地震による高速道路の倒壊は誰も予想していなかった。しかし現実には多くのビルが横倒しになり、高架駅が崩落した。この事実がもたらしたものは耐震基準の見直しと既存建物への耐震工事の実施だった。社会は大きく変化した。

阪神淡路大震災以後も地震は大きな被害をもたらした。2011年の東日本大震災は全国の原子力発電所を停止させ、私たちが如何に脆弱なエネルギー環境の上に文明を築いているかを知らしめた。

そして何よりテレビ画面に流された津波の映像は、私たちの世界を一瞬で滅ぼす恐怖の存在を思い知ることとなった。その被害は過去、幾度も繰り返されていた。

大地震両河口津浪記石碑(大阪市浪速区)

大正橋東詰の、この石碑は1854年の安政地震の津波被害の記録だ。文字が黒く流れているのは碑文の終わりに、「読みやすいよう墨を入れ、伝えていってほしい(訳文)」とあり、それが続けられているからだ。

個人的に興味深いのは「南無阿弥陀仏」と「南無妙法蓮華経」が併記されていることだった。宗派に偏らないとの意味だろう。

碑文の現代語訳

碑文には被害の状況が細かく記されている。余震が続き、水上なら安全と考えた人たちが船に避難したが翌日の津波で流されてしまう。そして、昔の宝永地震の際も船で避難して津波に襲われた記憶が記される。過去の教訓が生かされなかった反省がこの碑文には込められている。

碑文の終わりの方で、津波は「海辺の田畑にも泥水が吹き上がることもある」、と言うのは液状化現象のことだろう。

過去の液状化現象は発掘で見つかることもある。寒川旭『地震考古学 遺跡が語る地震の歴史』中公新書1992にはその実例が幾つもあげられている。その中に、紀元前1世紀に琵琶湖を襲った地震の存在が明らかになった経緯が記されている。弥生時代中期に琵琶湖底に沈んだ集落も見つかった。約2000年前の南海トラフ巨大地震に先立ち、私の言う「湖南政権」の地に大地震が発生していた。弥生時代の中期から後期への変動は地震の多発と自然災害の続いた結果ではなかったか。

愛知県の朝日遺跡の逆茂木や乱杭は防御のためと説明されてきたが、近頃は土石流などに備えた防災の観点からも論じられている。高地性集落の発生を含め、弥生社会の変化が自然災害への対策であれば、地震多発期にある現代と重なって見える。

弥生社会の中期から後期への動きはやがてヤマト王権確立への道のりだったのだ。

南海電鉄 汐見橋駅

大正橋の石碑は交通至便だ。もよりはJR大正駅だが私は阪神ドーム前駅から行った。南海汐見橋駅もほぼ等距離だ。

この駅はローカル線のターミナルらしく実にレトロだ。南海のレトロ駅には大概写真のような絵地図が掲げられているような気がする。以前はどこで見ただろうか、かなり古い記憶が重なっているので思い出せない。

南海堺駅を降りると堺旧港への標識が続く、それに従って歩き、水門を渡ると大浜公園が見えて来る。ここに目指す石碑がある。

擁護璽 堺市

「擁護璽(ようごじ)」と刻まれた石碑には、やはり安政地震の津波被害が記されている。擁護璽の命名由来は良くわからないが碑文を書いた伊藤吉左衛門(1798〜1856)によると考えられているようだ。「擁護」は守られていること、「璽」は記念碑との意味だろう。堺では大阪に比べて地震と津波での被害が少なかったことから擁護の言葉が用いられたのではないだろうか。

説明板 碑文と現代語訳

堺では宝永地震の津波の記憶が残り、安政地震でも船での避難はなかったと言う。碑文は複数の神社へのお礼で締めくくられている。内容はあまり具体的ではない。大阪に比べて被害が少なかったことを強調しているようにも思える。怪我人がひとりもいない、とは言い過ぎではないか。

大阪でも堺でも安政地震の記録に宝永地震の被害が記されている。巨大地震と大津波の記憶が100年以上も伝えられていたのだ。

最後の四天王寺へは阪堺電車で行くことにした。阪堺電車は久しぶりだ。多分、10年以上乗っていない。駅で待っているとこれまた古風な電車がやって来た。必要がないので撮影はしなかったが、これは一番古い電車だろうか、などと思いながら乗り込むと、これまた昔ながらの車内だった。信号待ちで停車しながらゴトゴト走る。天王寺に着くのはいつのことやら。

四天王寺

蘇我物部戦争の際、聖徳太子が四天王に戦勝を祈ったことが創建の由来とされる。古代には荒陵(あらはか)寺と呼ばれていた。かつてここに荒廃した古墳があったようだ。南の住吉大社から北の大阪城まで続く上町台地には古い古墳が複数存在したが早くからの都市化により消滅した。

大阪城も前方後円墳の上に築城されたとの話もある。かつては浄土真宗石山本願寺があった場所で、石山は古墳の葺石に基づくとも言う。

大阪城本丸付近は5世紀、倭の五王時代の「難波高津宮」だったとの説に傾いているので、さてさて‥‥。

亀井堂

四天王寺へ行ったら亀井堂に寄らなければならない。昔からある亀の形をした石槽だが、近年の調査により飛鳥時代のものと判明した。つまり明日香村の酒船石遺跡の亀型石槽と同時代ということだ。当然、関連している。

写真撮影禁止なので、大阪市の資料から拝借。

亀井堂の亀型石槽

写真は水を抜いた状態。左の亀の口から水が流れ出る。地中に導水施設があるようだ。この石槽や明日香村の遺跡が水の祭祀の施設であることは明らかだが、弥生後期から古墳時代の導水施設とどう関係するのか、今のところ良くわからない。これらをつなぐ系譜を明らかにしたいと思っている。

中央が安政地震津波碑

今、無縁墓の中に立てられている石碑はかつては独立していたとのことだ。

安政地震津波碑の東面・南面・西面

津波碑の説明板

ここにも船で海上に避難して津波に襲われたことが記されている。安全と考えて逃げた先で被災したのがよほどのショックだったのだ。大阪では宝永地震と安政地震の二度、同じ被害が発生している。その衝撃は想像を超える。二度の繰り返しが石碑の建立につながった。

約2000年前、これら以上の大津波が大阪湾岸を襲った。海岸に近い集落は壊滅し、住民は高台へ避難した。弥生文化は大きく変動した。中期から後期への移行は自然災害が大きな要因だったのではないだろうか。

日本海側と吉備では墳丘墓が巨大化し、埴輪の原型となる器台による墳墓祭祀が始まり、銅鐸の祭りは失われた。鏡の祭祀を受け入れた地域もある。

近畿中枢部では銅鐸が巨大化し、新たな神として降臨した。しかしその後も災害は続く。2世紀の前半には記録にないほどの豪雨が発生したことが言われている。数年に渡る凶作が続いたことだろう。2世紀後半の「倭国乱」の原因もこの辺りにありそうだ。

銅鐸から鏡へ、そして古墳へ。この流れの中に「邪馬台国」も「卑弥呼」もいる。

ところで今回、興味深かったのがみっつの石碑の「宗教性」だった。大正橋の石碑では「南無阿弥陀仏」と「南無妙法蓮華経」が併記されて、宗派の偏りをさけていた。堺の擁護璽は近傍の神社への感謝の言葉で締めくくられていた。そして四天王寺の石碑には「南無阿弥陀仏」。

おそらく建立の主体となった人物の宗派によるものだろう。大阪の2碑は町人により、堺では幕府の役人により建てられた。その辺りも関係しているのかと考えている。

2026年5月30日 弥生文化博物館「Revisit」展と開館35周年記念鼎談 〜その3〜

池上曽根遺跡 復元大型建物「いずみの高殿」

石川日出志氏(明治大学)は1954年、新潟県に生まれた。この日の鼎談は北部九州の武末純一氏(福岡大学)、近畿の森岡秀人氏(古代学協会)、東日本の石川氏によるものだった。基調講演では武末氏は朝鮮半島の同時代遺跡の状況を含めて大陸との関係を見据えて語られた。森岡氏は近畿を中心とする「弥生国土軸」を提唱し、「原倭国」成立からヤマト王権確立までの弥生時代論だった。

「〈弥生〉はひとつの時代・文化なのか?」と題された石川氏は従来の「西から東へ」の弥生時代観の見直しを唱えられた。

東日本を中心に花開いた縄文文化に対し、大陸から先進の文物が流入した弥生時代を「西高東低」と見ることに異論を示された。そして「地域文化の形成・推移・相互関係」を読み解いて新たな弥生時代観を創るとする。

これは森岡氏の「弥生文化コンプレックス(複合体)」観とほぼ変わらない視点と言える。地域がさまざまな様相を見せて推移するのが弥生時代なのだ。

その上で石川氏は弥生時代の東西を考える。東日本の弥生土器には縄文伝統が明瞭だとされて来たが、西日本の弥生前期の土器にも縄文伝統が見られ、東日本だけに縄文伝統を見るのは偏った見方だと言う。

そして土器以外の諸属性を見ると東西の差異は弥生前期から中期前葉こそ明確だが、中期中葉からは東西の連動性に目を向けるべきだとする。

柳沢遺跡出土の銅鐸・銅戈 柳沢遺跡HPより

弥生中期中葉(前1世紀)には神奈川県小田原市の中里遺跡のように突然大規模集落が出現し、本格的な稲作が定着した。中央高地でも同じ頃に農耕社会となったようだ。

2007年、長野県中野市で堤防整備工事の事前発掘調査の際、5口の銅鐸と8本の銅戈が出土した。青銅器は弥生中期の製造で北部九州から近畿のいずれかの地域で作られ、当地に持ち込まれたと考えられる。埋納時期は紀元前後と見られ、弥生中期から後期への移行期となる。

銅鐸・銅戈の流入の時期は明らかではないが、製造から埋納まで200年ほど伝世したと思われる。埋納時期は加茂岩倉・桜ヶ丘と同じだ。遠く離れた出雲・西摂・北信濃で同時に発生した現象は王権誕生への波が中央高地にまで及んでいた証となる。

弥生後期には関東・中部地方では西日本同様に石器が姿を消し、鉄器が定着する。北関東・東北では異なるが北部九州から南関東の広い地域が連動する社会を形成したと言えるだろう。

弥生時代は約1000年間に渡り日本列島全体でさまざまに変貌する激動の時代だった。石川氏は「〈弥生〉はひとつの時代・文化なのか?」との思いを抱き、「『JーK変成期』と呼びたい衝動に駆られる」と言う。

かつて酒井龍一氏(奈良大学)は縄文から弥生、弥生から古墳の変化の時代の土器を「JーY変成期」「YーK変成期」と呼んだ。石川氏はこれに倣って弥生時代を縄文から古墳への変成期と呼びたいのだと言われるのだ。

氏はその衝動を抑え、地方ごとの変移も鑑みて「時代区分論は極力緩やかに語るにとどめ、その上で個別のテーマごとに深掘りする二段構えで議論するのがよかろうと思う」と言われる。

今、私は弥生終末期の銅鐸埋納(廃棄?)の状況を調べている。まだ途中の段階だが、銅鐸祭祀との決別は地域によりさまざまな様相を見せている。前回触れた徳島県の矢野銅鐸は木箱に納められて埋められた。その上には切妻屋根の建物があったのではないかと言われている。これに対して奈良盆地東南部では銅鐸は盛んに破壊されてリサイクルされた。

銅鐸埋納に続く、鏡と古墳の様相を比較すると地域ごとの推移が見えてくるのではないかと考えている。それらを総合することで王権を巡る社会全体の動きを把握できるのではないだろうか。

金印公園 福岡市の文化財より

石川日出志氏と言えば近年は金印の研究だろう。私はこの講演以前に金印真贋論争にひとつの答えを出していた。それは真贋両論の折衷案で、それが可能かどうか調べようとしていた。しかし、この日の講演で粉砕された。

金印江戸時代製作説では、大まかに言えば印刻の技法が漢代の中国よりも江戸時代の日本のものに近いことによる。鈴木勉『「漢委奴国王」金印・誕生時空論 ー金石文学入門 Ⅰ  金属印章篇ー』雄山閣2010には国内及び中国に現存する古代中国の印章と江戸時代に製造された印章の印面を克明に観察した結果が記されている。残念ながら専門外の私にはよく理解ができないので、結論部分だけで判断するしかない。

鈴木氏によると、金印の印刻技術は古代中国製とは共通点を見出せず、江戸時代日本で作られた印章との共通点がいくつか見られた。結論としては金印は古代中国ではなく江戸時代の日本で印刻されたとなりそうだが、著者の鈴木氏は明言しない。

金印を本物とする石川日出志氏の論文のいくつかを読んでみた。その中でも金属組成の比較が興味深い(「金印と弥生時代研究ー問題提起にかえてー」)。

金印側面の蛍光X線分析では金95.1%・銀4.5%・銅0.5%の数値が得られている。同時代の奈良県東大寺山古墳出土の中平年銘鉄刀の金象嵌部ではすべて金99%代の高純度。中国の漢代の印章も金95%以上の純度で、この点では金印も同じだ。

ちなみに古墳後期の奈良県藤ノ木古墳出土の金銅製品の鍍金層では金85.4%・銀4.0%・銅9.0%と、やや純度が低くなっている。

問題の江戸時代の金製品では最初の慶長小判が金84.29%・銀15.71%、最後の万延小判が金56.77%・銀43.23%。これでは小判を鋳潰して金印を偽造することはできない。さらに江戸時代には幕府により金原料は厳重に管理されており、仮に福岡藩が関わっていたとしても原料の入手は困難と言う外ない。しかも漢代の金製品の組成を知る方法はない。

金印 福岡市博物館HPより

今回、論文のいくつかを読み直した。石川氏は金属組成だけではなく、字形からも江戸時代の技術者の知り得ない情報があり、その点からも贋作は不可能と結論された。

私が気になるのは両者の議論が噛み合っていないことだ。鈴木氏も同書の中で、蛍光X線分析結果に言及しているが、特に意に介していないようだ。最終章では測定結果のデータへの過度の依存を戒めているが、今求められている数値への批判とはなっていない。

石川氏も印面を比較して字形を論じているが、その印刻技術には立ち入らない。これでは双方の意見を聞いても判断ができない。

そこで私は折衷案を思いついてしまった。先述の通りこの案は粉砕された。思いついた時は「悪魔のささやき」だった。

志賀島(あるいは福岡藩内の別の場所)で見つかった金印は「親魏倭王」だった。これにはゾッとした。金印を最初に研究した福岡藩の学問所の学長だった亀井南冥(1743〜1814)らは卑弥呼の金印より古い「奴国王」印に偽造した、と考えた。

だがすぐに間違いに気づいた。金印の蛇鈕はラクダ鈕からの変形であることがわかっている。

2026年4月25日 栄根銅鐸と加茂遺跡〜六甲山麓で「金印」について学ぶ - ねのみこもちのフィールドワーク

左:蛇鈕「滇王之印」個人のブログより 
中:亀鈕鍍金印 右:駱駝鈕銅印「漢濾水佰長」以上福岡市博物館HPより

中国王朝は中国本土と異民族の王らに印を与える際、地域に応じて鈕を変えている。中国本土に対しては亀、東南の異民族には蛇、西北にはラクダだ。

左は現在の雲南省にあった滇国の王に下賜した金印だ。トグロを巻いた蛇が動き出そうとしているようにも見える。これと奴国王の金印を見比べて頂きたい。我が金印はなんともずんぐりして言われなければ蛇には見えない。石川氏も論文で、「亀井南冥がよくもこれを蛇形と判断したものだと驚く」と書いている。

この問題を解決したのが大塚紀宜(としのり)氏(福岡市経済観光文化局)だ。大塚氏は4月25日に黒川古文化研究所(西宮市)で金印などについて講演された(写真の上のリンク)。この時は真贋論争にまでは踏み込まれなかった。

大塚氏によると、金印は初めラクダ鈕で製作されたが途中で蛇に変更された。そのためずんぐりとした異様な形状となった。右のラクダ鈕印と比べると確かに似ている。駱駝の首から上を取り除き、蛇が振り返るような造形をし、コブを取って鱗を表現すれば何となく蛇になる。

大塚氏は急遽変更の理由を講演で語られたが、それに同意はできない。理由は上記ブログに記している。

もし、福岡藩内で出土したのが「親魏倭王」印であれば当然それは蛇鈕のはずだ。ラクダから蛇へ作り変えたのも亀井南冥らだと思った私は自分の間違いに気づいた。

それでは、としつこく考えだしたのが、まったく別のラクダ鈕の金印を入手した南冥らが鈕を作り変え、印面も彫り直したと言うことだ。日本国内には中国古代の印が複数持ち込まれている。金印もある。南冥らはラクダ鈕の金印をどこかから、おそらく中国商人から購入し、蛇鈕の奴国王印に改造したのだと考えた。

割と良い点に気づいたと思った。鈴木氏の著書には日本国内と中国に残された古代の印の一覧があるのでひとつひとつ当たれば何かが見えてくるのではないかと思った。

この思いつきが粉砕されたのが石川氏の講演での次の資料だった。

蛇鈕の型式変遷 講演会資料より

石川氏は鈕の形体を研究し、その変遷をたどることで奴国王金印が蛇鈕の新たな系列の祖であると突き止めた。この発見で金印が本物であることが決定したと言われた。

上の列、左端の鼻鈕と呼ばれるシンプルな鈕に頭と尾がついて蛇になった。やがて蛇は蛇行し、トグロを巻く。ところが亀鈕から派生したラクダ鈕を変形して蛇形にした我が金印以降、これが新しい形式として発展して行くのである。

これで私の折衷案は妄想であると明らかになった。ラクダ鈕を蛇鈕へ改変したのが福岡藩ではなく、古代中国だった。江戸時代の日本人がラクダ鈕の金印を入手して奴国王印に作り変えたのではなかった。ラクダ鈕から蛇鈕への改変は中国で行われ、さらに発展する。

やはり金印は本物と決定して良いのだろうか。まだいろいろと疑念が燻ってはいる。

纒向遺跡東方から見た二上山

午後からの鼎談は途中小休憩を挟み、17時ごろまで続いた。内容は多岐に渡ったが尽きるところは邪馬台国だ。

この頃、考古学では邪馬台国の所在地を論じなくなった。土器編年の見直しで、それまで4世紀と思われていたヤマト王権の確立が3世紀半ばまで遡り、箸墓古墳の築造も4世紀初頭から250年ごろと、まさに邪馬台国の卑弥呼の時代と重なってしまったからだ。

昨年発行された宮本一夫編『論争 邪馬台国』雄山閣は2024年9月に東京で行われたシンポジウムの記録だが、考古学協会会長の石川日出志氏が「はじめに」で所在地論争に触れているのみで、本文ではまったく言及がない。

岡村秀典氏の最新の論文には「近年の学界では邪馬台国の所在地論争がタブー視されている」とある(「漢帝国の世界戦略と倭国の形成」)。

この日の鼎談でも所在地論争はなかったが始めに武末純一氏が「所在地論争は嫌いだ」と言い、「邪馬台国の話になると必ず九州か畿内かと聞かれる。わからない、と言う立場があっても良いはずだ」と発言された。これは至極当然の意見だ。考古学に限らず学問は総てわからないことをわかろうとすることだ、わからないことがなくなったら学問は終わる。わからない立場は常に存在する。

寺沢薫氏(桜井市纒向学研究センター)は卑弥呼共立までの北部九州優越を論じる。森岡秀人氏・岡村秀典氏・難波洋三氏(島根大学)らは大岩山銅鐸や伊勢遺跡の存在から近畿の優越を説く。寺沢説では「イト倭国」として、北部九州の有力者が連合していたとする。その範囲が広形銅矛の分布圏だ。

対する森岡氏は「原倭国」、岡村氏は「原倭王権」を説いて近畿式銅鐸の分布範囲をその版図とする。近畿式銅鐸の原料の総量は広形銅矛のそれを大きく凌ぐ。しかし、鏡はと言うと、やはりこの時代でも北部九州が圧倒的だ。寺沢説の大きな柱となっている。

ところが古墳時代に入ると銅鐸は忘れられ、近畿の鏡は他を圧倒する。「イト倭国」の東遷か。私もヤマト王権確立に北部九州勢力が関わっていたと思うし、鏡の副葬も伊都国・奴国の伝統を受け継いだと考える。しかしヤマト王権が導入したのは北部九州の伝統だけではない。

巨大化した墳墓は出雲・吉備から、前方後円形は阿波・讃岐から、後に埴輪に発展する吉備の特殊器台など。前方後円墳は各地の勢力の墓制を統合したヌエのような存在だ。

ここで思い出したことがある。難波氏が論文の中で「成立に関与した銅鐸群の数が多く、かつそれらの銅鐸群の特徴の混交が著しい」「近畿式銅鐸のいわばキマイラ的特徴」と記していたことだ(「扁平鈕式以後の銅鐸」『大岩山銅鐸から見えてくるもの』滋賀県立安土城考古博物館2011)。

湖南政権のシンボルである近畿式銅鐸はそれまでの銅鐸文化の集大成だった。それは異様な「キマイラ的特徴」を持ち、巨大化の道を進んだ。

前方後円墳も同様の性質を持っている、私が図らずも「ヌエのような」と形容した墓制の統合であり、銅鐸同様巨大化していった。湖南政権とヤマト王権は同質の政体とは言えまいか。それはつまり、間に倭国乱を挟むとは言え、湖南政権からヤマト王権への政権移行は王朝交代のようなものではなく、王権確立へ向けての「変化」とでも言うべきものだったのかも知れない。

最大の銅鐸と前方後円墳 左:大岩山1号 銅鐸博物館 右:大山古墳 Googleアース

銅鐸の埋納に関しての討論の中で森岡氏が洩らした言葉がある。どんな言い回しだったのか良く憶えていないが、「神を埋めて祭る」ようなことを言われた。少なくとも「神」の語があったのは確かだ。

実は私も似たように思っていた。銅鐸はシンボルと言われ、私もそのように使うが、巨大化した銅鐸はシンボルよりもアイドル(偶像)と言うべきではないかと思い始めていたのだ。

ここに画像をアップするのは控えるが、自分のパソコン画面に左の大岩山銅鐸と法隆寺夢殿の救世観音蔵を並べて見た。観音像の大きな光背が、大きく広がる銅鐸の鈕に重なる。流れるような裾も末広がりの銅鐸の鰭を思わせる。ここに前方後円墳のフォルムを並べても良い。3者は驚くほど似ている。

銅鐸は神像ではなかったか。日本列島では仏教伝来まで偶像を持たなかった。埴輪は? 偶像とは言えまい。埴輪は人と人の暮らしを形どったものだからだ。弥生時代の絵画にも神を描いたものはない。神は見えない存在だからか。初めはそうだっただろう。しかし、ある時から神を形象し始めた、それは神を形どったものではなく、神そのものとして崇拝されたのではないだろうか。それが巨大化した終末期の銅鐸だった。

倭国乱を経てヤマト王権が確立すると新たなアイドルが創造された。前方後円墳である。埴輪に神像がないのは、埴輪が神を祭るからだ。埴輪の祭る神は前方後円墳だった。

以上は私の妄想である。銅鐸から前方後円墳へ。ここにひとつの変数がある。鏡だ。鏡は祭器であると信じられている。同時に王権の威信財であることも違いない。地域によっては銅鐸から鏡への交代が見られる。しかしその銅鐸は祭器であって神像ではない。銅鐸から鏡へ祭器が変化したのだ。

では神像としての銅鐸は次にどう変化したのか。それが前方後円墳だと言いたいのだが、際限のない妄想はこれくらいにしておく。

行燈山古墳と穴師山

鼎談は3者の個性が出ていて良かった。淡々と語る武末純一氏は、その穏やかな態度にも関わらず大胆で熱い言葉を発せられた。森岡秀人氏の常に挑戦的な姿勢からは、次に出る言葉を期待させる。石川日出志氏は立ち上がりスライドの前で、自分の指先の影でポイントしながら話される。司会進行の禰宜田佳男館長も時に近畿代表の立場で意見を求められていた。

閉会の挨拶に立ったのは前副館長の秋山浩三氏(弥生博学芸顧問)。この方は年輪年代測定で前52年の数値を出した池上曽根遺跡の柱を掘り出した人だ。挨拶ではあるが、楽しい話をされた。少々、長い。

弥生時代観を変えるきっかけとなった遺跡にある博物館での今回の企画は意義深いと思う。もしかすると「弥生時代・弥生文化」の語が消えてしまうかも知れない。その、ある種の危機感がそこにあった。

しかし、弥生時代が消えてしまっても歴史が消えるわけではない。冥王星が惑星でなくなっても、冥王星は変わらず存在しているのだから。