この日は滋賀県野洲市の銅鐸博物館で岡村秀典氏が「歴史考古学からみた倭国王帥升と大岩山銅鐸」と題して講演された。タイミングよく銅鐸博物館を再訪したいと思っていたところだ。また最近発掘された中畑・古里遺跡も確認しておきたかった。
始めに断っておくと、岡村氏の講演内容は近年の氏の仮説のままだったので、ここでは詳しくは触れない。私はもうひとつのブログ「銅鐸・鏡・古墳」で岡村説について4回にわたり紹介している。
岡村説の紹介は3回目までで、4回目では難波洋三氏が出された岡村説への「注文」について検証した。難波氏は岡村説を全否定されているわけではないが、若干の懸念を表明されている。私は岡村説を紹介する中で、自身の見解との相違についても触れている

写真中央に工事中の建造物が見える。道路の高架のようだ。その手前で大型建物跡と、門柱と思われる柱穴が見つかった。時期は弥生中期の終わりから後期初頭とのことだ。
弥生時代の大型建物は滋賀県では伊勢遺跡に始まるとされていたので、時代が50年ほどさかのぼった。しかも守山市の伊勢遺跡よりも三上山や大岩山に近い位置だ。
紀元前後にあたるこの時代には銅鐸が巨大化し「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へ変化する。東アジア史的には王莽の時代であり、岡村秀典氏が着目する「東夷王」の遣使もこのころだ。
「東夷王」遣使は史実ではない可能性が大きいが、野洲川デルタの勢力を中心として近畿各地の勢力が結集し、北部九州を介さずに中国へ遣使したとも考えられる。
岡村説ではこの時すべての「見る銅鐸」の青銅原料と王莽宮廷鏡が近畿へもたらされたとする。異論はある。「見る銅鐸」の原料は非常に狭い領域に属するもので、ひとつの鉱床に由来すると思われるが、同時に北部九州で巨大化した広形銅矛も同じ原料を用いている。
「東夷王」遣使には北部九州勢力の影響は排除できない。
また、王莽宮廷鏡である方格規矩四神鏡は近畿の前期古墳から出土するが、王莽期に近畿にもたらされたとすると、300年以上の「伝世」を考えなければならない。
とは言え、中畑・古里遺跡の出現で岡村説の魅力が増したことは事実だろう。
今後は私がこの時代に発生したと考える大規模な自然災害との関連が課題となるだろう。
この遺跡については「古代史ハルキー」さんが新しい動画の中で触れている。
ハルキーさんの考察はとても深いので勉強になる。
この動画の補足もアップされているのでそちらも見て頂きたい。
ハルキーさんの「銅鐸王国」とは私の言う湖南政権とほぼ重なるようだ。ただしその終焉についてはやや異なる。
「銅鐸王国」はヤマト王権に吸収される際、銅鐸埋納を許されて大岩山に埋めたとのことだが、私はヤマト王権により強制的に埋納させられて湖南政権は消滅したと考えている。それは「倭国乱」の結果だった。
補足の動画では「聞く銅鐸」の時代は「集団祭祀」だったが、「見る銅鐸」時代には「カルト的」な意味合いを持つようになった(動画の表現は違うが)。
私は近畿式・三遠式銅鐸は「神像」だったと見ている。弥生後期に銅鐸祭祀を捨てた地域では墳墓が大型化して王権の芽生えが見られるが、銅鐸分布圏では墳墓の大型化は見られない。しかし、それに代わるものが巨大化した銅鐸ではなかったか。
近畿式・三遠式銅鐸は王権のシンボルと見て良いと思う。ハルキーさんの見解にも近いと考える。

野洲市歴史民俗資料館「銅鐸博物館」は大岩山銅鐸出土地に近い。大岩山では1881年に子供達が偶然に銅鐸を発見し、最大の近畿式銅鐸を含む14個が出土した。その後、散逸し、現在12個の所在が確認されている。
次いで1962年、新幹線の工事に伴い、10個の銅鐸が見つかった。これらは散逸を危惧して滋賀県が保管することとなった。この時の経緯は銅鐸博物館編『銅鐸と邪馬台国』サンライズ出版1999に収録されている水野正好(1934〜2015)の講演に詳しい。



常設展示室1では銅鐸の出現から製造方までがコンパクトに展示されている。銅鐸のルーツになったと思われるのは左写真の左にある馬鈴、また朝鮮半島で製作された小銅鐸(中央)だ。右の小銅鐸は北部九州で製作されたもので、銅鐸の影響を受けて作られたと考えられている。
青銅の原料は銅が最も多く70%前後、錫が数%から20%以上と開きがある。鉛は2%以下から10%を超えるものがある。この他に1%未満の微量な物質が20種以上測定される。中央の写真の展示では銅と錫の配合による色調の変化がわかる。
銅鐸鋳型は石製段階のものは見つかるが、土製になると発見されていないようだ。土製鋳型は大型化が可能だがもろいので再利用ができない。したがって同笵銅鐸も少ない。
ここでは銅鐸復元の際の映像とともに銅鐸と鋳型の関係が良くわかる模型が展示されている。以下の動画はそれを編集したものだ。
常設展示室2には大岩山銅鐸が展示されている。


左写真の左奥に見える大きな銅鐸が最大の近畿式銅鐸で実物は東京国立博物館にある。右手前のものもレプリカだが奈良県の天理参考館で見ることができる。
いくつかは撮影禁止になっていた。海外の博物館に所蔵されているものや個人蔵のレプリカだ。
右の1962年出土銅鐸のうち数点は実物が展示されている。
銅鐸を見に行くと言ってもその多くはレプリカだ。私はそれで良いと思っている。専門の研究者ならともかく、一般の私たちでは本物かどうか見分けはつかない。私たちが観察するのはレプリカで問題はない。


展示室奥の壁面には各地の銅鐸が展示され、銅鐸の変遷を見ることができる。続いて滋賀県出土の銅鐸が展示されている。




竜王町山面(やまづら)銅鐸 大津市石山寺辺町出土の銅鐸
大岩山では24個の銅鐸が出土しているが、それ以外の滋賀県内からの銅鐸は決して多いとは言えない。この現象にも意味があると思われる。例えば、地域の勢力が大岩山に銅鐸を持ち寄ったとの考えだ。
私もこのような見方に近いが、王権との関わりの中でどのように位置づけるべきか答えは見えてこない。他地域の例から、埋納状況や集落遺跡との関係からドラマが見えてくるとは思うのだが。

2階の企画展示室ではこの日から秋季企画展「湖・川が育む水との暮らし」が始まっていた。古代から現代に至る、琵琶湖水運、漁業、農業についての展示だ。
特に興味をひいたのは祭祀に関する展示だった。古墳時代につながる導水施設の遺構は守山市の服部遺跡に始まるとも言われている。ほぼ同じ時期に纏向遺跡でも同様の祭祀が行われていた。これについては改めて考えて行きたい。
午後からの講演を前に一旦館外へ出た。

昨年、大岩山銅鐸の出土地を探った。結局どこかわからなかった。後で調べると、長年の土取りでかつての山容はほぼ失われたとのことだった。その日、私は右の道を下ってこの碑を見た。
2025年9月16日 湖南の弥生時代を歩く - ねのみこもちのフィールドワーク
その後も気になっている。大岩山銅鐸の埋納地からは三上山が見えない。三上山に連なる尾根の先ではあるが、なぜここにと思う。
私は始めに大岩山銅鐸はヤマト王権によって強制的に埋納させられたと言った。しかし今、少し考えが変わった。埋納は「させられた」のではなく、意図的に「隠匿」のために行われたのではないか、と言うものだ。
今はおぼろげに思い始めただけだが。
冒頭に記したようにこの日の講演はこれまで読んできた岡村秀典氏の論文の内容を大きく出るものではなかった。特に難波洋三氏の呈した疑問への答えもなかった。なかったのではなく、主張を変えられることはなかった。
論文を読む4 岡村説への難波洋三氏の疑問 - 銅鐸・鏡・古墳
岡村説と私の見方の違いは大岩山銅鐸埋納に王権の交代を見るか、見ないかだ。岡村説では「東夷王」の時代から卑弥呼まで、一貫してヤマトに王権があり、卑弥呼以前を「原倭国」と呼ぶ。
私は最大の近畿式銅鐸を作った勢力を湖南政権と呼ぶ。この政権は後のヤマト王権との確執により消滅した。それが「倭国乱」である。
岡村説では最大の銅鐸を作った王権がそれまでの銅鐸を一括して埋納し、銅鐸の祭祀を終えたとする。政権を失った湖南勢力がヤマト王権の命令により銅鐸を埋納したとする私の考えとはそこが異なっている。
また自らが王権に加わることで銅鐸埋納を許されたとするハルキーさんの説もある。
銅鐸には直接触れないが森岡秀人氏は伊勢遺跡で卑弥呼が共立されたとする。森岡氏は近畿北部勢力を重視している。
講演会は盛況だった。満席になり、後からきた人のためにパイプ椅子を運ぶ館員が走る。岡村氏は今最も刺激的な説を展開している。遠くからきた人もあるようだった。人気の理由もわかる。博物館側としては予想外だったのだろう。

岡村秀典氏は中国考古学が専門で、鏡の研究で大きな成果を上げている。特に前漢から後漢にかけての漢鏡編年は至るところで用いられている。
氏は、毎年中国へ出かけて青銅器の調査をされていたが、コロナ禍で渡航ができなくなり、そこで国内の青銅器に注目して研究を始めたとのことだった。
難波洋三氏は岡村氏の先輩にあたり、京都大学時代から難波氏の銅鐸研究を横目に見ていたという。「私にはとても無理だと思った」と言われるが、どうなのだろうか。
今、どこの講演会に行っても多くの人が集まってくる。それほどに歴史に関心のある人がいるのだろう。講演会の内容は一般向けでもかなり難しい。専門的な知識が求められている。熱心にメモをとる人の姿がいつもある。それに自分が加わっていることが嬉しくもある。






























































































































