
大阪府北部の北摂地域は重要な遺跡が多い。写真の史跡公園は弥生前期から中期にかけての大規模集落、安満遺跡だ。中期には池上曽根遺跡、唐古・鍵遺跡と並ぶ巨大環壕集落だったが、池上曽根同様に中期の終わりに衰退する。
弥生後期には集落は分散し、高台へ移動する。高地性集落だ。
北摂でもこの日訪れた高槻市・茨木市は三島郡を含めて「三島地域」と呼ばれる。
安満遺跡の南西、茨木市の東奈良遺跡では銅鐸が盛んに生産されていた。同笵銅鐸の多い、扁平鈕式古段階の銅鐸はこの三島地域も主要な生産地となっていた。
他には河内東部の生駒山麓、ヤマト、播磨などで多く作られていたようだ。
しかし北摂では扁平鈕式銅鐸の出土が見られない。主要な生産地ではあったが、地元には置かれなかったのだろうか。吹田市と豊中市からはさらに古い外縁付鈕式段階の銅鐸が出土している。
高槻市からは「見る銅鐸」の最古段階になる突線鈕2式銅鐸が安満遺跡に近い天神山から出土している。この段階の銅鐸生産は北摂を離れ、近江に移っていたと思われるので、野洲川デルタに拠点を置いた「湖南政権」からの下賜と考えられる。
なお、同地域から突線鈕4式銅鐸が出土し、ロサンゼルスの美術館が所蔵しているとされるが、詳しい情報がない。
また箕面市如意谷からは突線鈕3式、厳密には北摂には含まれないが、大阪市北区長柄から突線鈕2式銅鐸が江戸時代に出土している。これはボストン美術館が所蔵している。
北摂の銅鐸生産集団は近江と東海へ分散して移動し、それぞれ近畿式・三遠式銅鐸の生産集団の核となったと考えているが確証はない。
古墳時代に入ると北摂では顕著な古墳の推移が見られる。前期から後期にかけての明確な首長墓系譜が読み取れ、しかもその系譜上にヲホド王(継体天皇)の眠る今城塚古墳が位置付けられるのだ。
今城塚古代歴史館にわかりやすい編年表があった。

この日は訪れなかったが、奈佐原・土室(はむろ)グループに岡本山から一直線に並ぶ弁天山古墳群はこの地域の支配者層の系譜を見事に表している。突線鈕式銅鐸を保持していた天神山地域とは芥川を挟んで隣接している。
湖南政権と関係を結んでいた天神山地域はヤマト王権の時代には勢力を削がれ、前期古墳はまったく見られない。変わって女瀬(にょぜ)川流域の勢力が前方後円墳を連続して築造する。この勢力はヤマト王権と密接な関係を築いていた。
以上のようなストーリーが考えられるが、そう単純なものではないだろう。
安満宮山古墳の位置付けが難しい。

編年表では右端の最も古い位置にある。高槻市公園墓地内にある安満宮山古墳は20m前後の長方形墳と考えられている。かつてはここに存在した古墳後期の安満古墳群に含まれると思われていたが、発掘の結果、三角縁神獣鏡を含む5面の銅鏡が出土し、前期の古墳とわかった。
中でも注目されるのが魏の年号「青龍三年(235)」銘をもつ方格規矩四神鏡だ。2面の三角縁神獣鏡も3世紀前半のもので、古墳時代初期の同時代鏡が副葬された。魏の年号鏡や三角縁鏡はヤマト王権の威信財であり、安満宮山古墳の被葬者が王権に近い人物であった可能性はある。
編年表では安満山と天神山はふたつのグループに分けられているが、位置的には安満遺跡を介して両者は不可分に思える。近畿式銅鐸を保持していた勢力がヤマト王権とも緊密な関係を築いていたと言える。
安満・天神山地域には安満宮山古墳古墳に続く古墳が見られない。これに対して女瀬川流域に岡本山古墳以後、連綿と古墳が築かれている。
これは見方を変えれば、安満宮山古墳の後継者が岡本山を始めとする弁天山古墳群の被葬者らと考えられなくもない。つまり、弥生後期から古墳時代にかけて三島地域における一定しており、湖南政権ともヤマト王権とも良好な関係を築いていたとも言えるのだ。
王権交代に関わり、地域の主権も移動したのか、しなかったのか。解釈の仕方でどちらにも可能性がある。
この地域に関しても遺跡を丹念に調べることで、かつて試みた西摂地域での勢力の消長のドラマのようなものが見えて来るだろう。
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また、今後の課題ではあるが、西摂地域では銅鐸→鏡→古墳→古代寺院への系譜が読み取れる。これは昨年、三重県伊勢市での講演で学んだ、伊賀での系譜研究の手法を用いたものだ。
2025年11月16日 三重県へ 伊賀と伊勢を知る - ねのみこもちのフィールドワーク
北摂でも古代寺院を調べることで、逆に銅鐸にさかのぼる歴史を描けるかも知れない。さらに同様の手法で各地の変遷をたどれば、王権の歴史全体を描き出せるだろう。

今城塚古墳は2度目だ
今回はこの古墳に隣接する今城塚古代歴史館に展示されている周辺古墳の副葬品を見たかった。特に安満宮山古墳の鏡に注目だが、弁天山古墳群からも鏡が出ている。
歴史館で撮影した古墳編年を見ていただきたい。弁天山古墳群は初代の岡本山を最大とし、徐々に縮小する傾向にあるが、5世紀前半の前塚古墳を最後に一旦途切れるように見える。
その穴を埋めるように茨木市に太田茶臼山古墳が築かれる。226mの大王墓クラスの前方後円墳だ。
この時代は三島地域の古墳には土室にある埴輪工場から埴輪が供給されていた。このことから太田茶臼山も弁天山古墳群の系譜上にあると捉えても良いのかも知れない。

新池遺跡では18基の埴輪窯跡が確認されている。右から1号窯(よう)・2号窯が復元されている。

埴輪窯は右から1号、2号、左端の18号窯は発掘当時のまま展示されている。窯の上に見える3棟の作業場は右の2棟が復元されている。
1〜3号窯では太田茶臼山古墳へ埴輪が供給されたと考えられる。そして18号窯では今城塚古墳の埴輪が焼かれていた。





こうして見ると今城塚古墳に眠るヲホド王は三島地域の勢力の系譜に連なるように思える。ヤマト王権の初期から連綿と首長墓を築き、大王墓級の太田茶臼山古墳を造営した支配者の先にヲホド王は存在している。
太田茶臼山の被葬者はヲホド王と無関係の人物ではないだろう。ヲホドはその人物の地位を継承したのかも知れない。
するとヲホドの位置が見えなくなる。ヲホドは「日本書紀」によると越前三国(福井県)にあって大伴氏らに懇請されてヤマト王権を継承したことになっている。
研究者によるとヲホドが拠点としていたのは越前ではなく近江ではないかとも言う(水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎』文春新書2013など)。いずれにしても近江から北陸へ勢力を誇っていたヲホド王はヤマト王権内の勢力と手を結ぶことで畿内への進出を謀った。
その王権内の勢力こそが三島を本拠とする首長層なのだ。ヲホドは直接ヤマトへ入ることなく、北河内・南山城を転々とした。「日本書紀」はヲホドがヤマトへ入ったのは即位から20年後とし、7年後との異説も載せている。
古くから王権内部に確固とした地位を築いていた三島の首長層でも、擁立した王がヤマトでの安定した政権を得るのに7年から20年が必要だったのだ。
古墳編年表で7世紀半ば、太田茶臼山の下に見える阿武山古墳が藤原鎌足の墓とも言われている。「日本書紀」には鎌足が三島に隠遁していたことも記されている。
中臣氏は大阪府下全域に広く点在していたようで、三島も拠点のひとつだ。しかし、中臣氏は新興勢力であって6世紀以前の動向は不確かだ。王権初期にさかのぼる勢力とは考えられない。
ヲホド(継体天皇)以後、「日本書紀」の記述は信憑性が高まる。それでも6世紀代の記録は不安定で厳密な検証が必要となる。その上で日本で文字化された記録を用いることができるのが6世紀なのだ。
逆に5世紀以前の「古事記」「日本書紀」の記述は信用できず、用いるべきではないかと言えば、そう単純な話ではない。まったく排除すべきではないが、慎重の上にも慎重を要するとするのが今の私の立場だ。

編年表の左を見ると、福井グループの中にひとつだけ前期の前方後円墳がある。華麗な副葬品の出土した紫金山古墳だ。特に被葬者の頭部近くで見つかった方格規矩四神鏡は「王莽宮廷鏡」としてこのブログでも何度か取り上げた。
2025年12月20日 「卑弥呼の鏡」を探す。〜黒塚古墳・大和天神山古墳〜 - ねのみこもちのフィールドワーク

右上の空いたところに方格規矩四神鏡が展示されているのだが、この時は同館で開催中だった企画展「年代の定点」に展示されていた。
紫金山古墳は前期の重要な古墳だが、系譜が把握できないのは安満宮山古墳と同様だ。同じ三島地域の弁天山古墳群との関わりがあるのか、隣接する安威グループと連続するのか、何とも言えない。
この日の最後の目的地としたのだが、たどり着けなかった。Googleマップを過信したことと下調べ不足からだ。
古墳後期の新屋(にいや)古墳群に位置する新屋坐天照御魂神社に参拝して帰路に着いた。



このブログを書くために再度、紫金山古墳を検索すると以下のサイトを見つけた。詳しいアクセス方法が紹介されているので紫金山古墳を訪問する際の参考となると思う。
もうひとつ下調べ不足の告白になるが、弁天山古墳群について古い資料ばかり見ていたせいか、行き難い山の中にあると思っていた。実際には今城塚古墳に近い市街地に点在している。近いうちに再訪したい。

































































































































