手のひらの話

物語のような、呟きのような…

蛇行剣 特別公開

4日、橿原考古学研究所博物館での富雄丸山古墳出土の蛇行剣特別公開に行った。f:id:vinhermitage543:20240409025628j:image

整理券を受け取り、外で待った。中に入っても1時間以上並ぶと聞いたが退屈はしなかった。昨日の夕刊によると、その日は最も来場者の多い日だったそうだ。木曜だから空いていると思う人が多かったのだろう。

その日の朝、近鉄富雄駅から添御県坐神社、富雄丸山古墳、矢田坐久志玉比古神社を訪ね、博物館へ向かった。現地に足を運ぶのは、その地のロケーションを知るためで、そこから見える風景が、それぞれの遺跡の意味を探る重要な手がかりとなる。富雄丸山古墳では残念ながら墳頂に立つことができず、その風景を見ることができなかった。

f:id:vinhermitage543:20240409030818j:image

近鉄畝傍御陵前で降りると、年配の方が10名ほど、ほぼ同じ方向に歩いて行かれたので何も考えずついて行った。畝傍山の桜が咲いているのが見えた。

順番が来て中に入るとチケット購入の列に並んだ。そこにも展示品があり、興味深く見た。モニターには蛇行剣発掘を報じたドキュメント番組の録画が流されていた。資料を受け取るといよいよ展示室である。古墳の説明、発掘の様子、蛇行剣のクリーニング作業を説明するパネルが展示されたいた。どれも興味深く、身を乗り出して見ている人も多い。X線画像や3D画像の展示があり、最後に蛇行剣の実物がある。

考古学には素人なので、いくら目をこらしても何もわからない。あとで資料をよく読もう。その大きさを実感できればいい。

常設展示も見たが、あまり身が入らない。今度、ゆっくり見に来よう。と言って来た試しがない。

蛇行剣、しばらくは頭から離れそうにない。

久しぶりの投稿

昨年暮れ、『古代の歌の物語』を書き上げた。今日、『もの言わぬ皇子 出雲大社と「古事記」』を脱稿し、データを送信した。

『もの言わぬ皇子』の執筆の前に私の研究ノートでもある『古代史の研究1』をまとめた。こちらは未だ非公開だが、いずれ刊行するつもりだ。

それで今はニュートラルな状態である。

https://hermitage.simdif.com/

次は古代製鉄、蛇神信仰などを論じるつもりだったが、しばらくは物部氏を研究することとなった。

現在、発掘が進められ何かと話題の富雄丸山古墳から出土した蛇行剣を中心に考えようとしたが、するとどうしても物部氏が気になる。そこで遠回りして「古代史研究ノート」は物部氏と『先代旧事本紀』に踏み込むことにした。

あめつちの始まり その一

あめつちとは天と地。その始まりの時、雲の上の国、高天の原に現れたのはアメノミナカヌシの神であった。この神の姿は北の夜空高く、とこしえに動かないひとつの星である。この神はこの世界を永遠に見続けている。

次にタカミムスヒの神・カムムスヒの神が現れた。ムスヒとは生成の力。世界の原理である。タカミムスヒは高天の原に、カムムスヒは私たちの暮らす地上世界である葦原の中つ国に働き続けている。

この三柱の神々は始めからこれまで変わらずあり続けている。この国には数限りない神々がある。神を数えるときにハシラと言う。

 

このように私の古事記を語りたいと思う。

歴史の節目

2020年は確かに歴史の変わる瞬間だった。私たちはこれまでの常識を転換せざるを得なかった。

私の人生ではこれまで2度世界史の節目を見たと思っていた。1度目は1989年ベルリンの壁崩壊。同じ年には天安門事件も起きている。2度目は2001年911アメリ同時多発テロ。そして昨年が3度目だった。

日本に於いては1995年阪神淡路大震災東京地下鉄サリン事件。2011年東日本大震災だろう。

因みに私にとっては1985年。この年世界ではゴルバチョフの登場、日本では日航ジャンボ機墜落事故、個人的には父の死であった。

50年余りの人生だが歴史の節目に幾度も出会っている。思えば不思議な気がする。

古事記を読む

2年程前、ほぼ1年かけて古事記を現代語訳した。古事記の一語一語を理解する作業だった。その中で感じたことは、これまで私は古事記の何を読んでいたのだろうか、であった。

小学生の頃から古代史に興味を持ち、古事記の物語にも早くに触れた。10代で文庫の古事記を手にしてからは常に手元にあった。

幾度も繰り返し読んだ筈の物語に幾つもの発見があった。如何にいい加減に古事記を読んでいたことか。これまで読み飛ばしていた意味の捉え難い不確かな言葉こそが重要だったのだ。しかも私にはそれが分かっていた。それなのに追求する事なく流していたのだ。

今、私は更に古事記の一語一語を掘り下げる作業に入っている。現代語訳でも曖昧にした言葉もなおざりにはしない。しかしそれにしても不明な言葉が残るのも事実だ。

とは言え、作業自体は楽しい。ひとつの言葉から次々に世界が広がるのはスリリングでさえある。いずれその成果を何らかの形に纏めたいと思っている。

物書きになりたかった

50代になって思うのは、結局私がやりたかった仕事は何らかの形で文章を書く事だった。

なんとかライターとかジャーナリスト、何々作家などと言った仕事だ。目指した事もあったが中途でやめた。

いずれにせよ物書きは簡単に就ける職業ではないと思う。20代、当時の言葉でプー太郎、今で言うフリーター、略してプー生活を送っていた。今も大して変わらないのだが…。面接を受けた会社に何とか産業新聞というのがあった。

雑居ビルの小さな事務所だった。簡単な筆記試験があり、社員全員からの面接だった。東京の本社の決定が必要なので連絡は後日となった。

その日の午後、別の会社の面接を受けた。こちらは即決だった。先の会社に断りの電話を入れた。

「君なら間違いなく採用だったのだが」

物書きの仕事に最も近づき逃した瞬間だった。

その後も新人賞に応募したり、文章を投稿したりしたが職業としての物書きの入口には立てなかった。

今の私の年齢で新人賞を取り、作家となった方も多い。しかし自身にそのような文章が書けるとは思えない。文章は書き続けなければならないのだ。私にはその修行が足りない。

梅原猛氏を悼む

『水底の歌』を再読した。読み始めて数日、梅原猛の訃報。ある種、怒りに似た感情。梅原氏の古代論文への反論を目標と定めたばかりだった。10代で初めて『神々の流竄』を読み、以後『隠された十字架』『水底の歌』『聖徳太子』などの20代だった。『地獄の思想』から仏教思想に入り、日本古代史への思考も深めて来た。

40代以降気になり始めたのが、梅原説を信じきっている人の多いことだった。私は自身の知識が深まるほどに梅原説への懐疑がつのっていたが、それはつまり私が多くの文献に接し、考え続けて来たからなのだろう。私は梅原学への大反論を企てていたのだ。